春の雪と夏の真珠(第三十五話)

第三十五話

 A4版のアルバム。
 表紙には『春の雪、夏の真珠』とある。夏珠らしい爽やかな黄色とピンクを基調としたアルバムで、春と夏のイメージがよくはまっている。
 横並びにほとんどくっついているというくらい寄り添いながら二人でゆっくりとページをめくる。
 ページの一番上に写真が貼られ、その下にある大きな余白には夏珠の手書きコメントがかわいらしく散りばめられていた。
 「この頃はまだ知り合ってなかったんだね。たぶんお互い顔だけを認識してる程度だよ。あ、いる、みたいなね」
 それは中学二年生の頃に塾のクラスのみんなで撮った集合写真だ。
 タイトルは『始まり』。
 運命のいたずらなのか、俺は夏珠が一番前の列でしゃがんでいるすぐ真後ろに立っていた。
 俺と夏珠、それぞれに太い赤のマーカーで丸が囲ってある。
 「うん。でも俺はこの頃もう夏珠のことは気になってたよ。だから頑張って勉強して上のクラスに上がったんだもん」
 夏珠は笑う。
 「そうだね。そんなこと言ってた気がする」
 「記念すべき最初の写真。まだ知り合ってないけど、惹かれ合う運命の下にいる二人。この位置関係はやはり神の示しかな?」
 「ちょっと。声に出して読むな」
 夏珠の柔らかい体がドンと俺の体を押す。今現在のことなど微塵も感じさせない付き合ってた当時さながらのじゃれ合い方だと思った。
 ふわっと夏珠から甘く懐かしい香りがする。
 俺たちはゆっくりと時間を逆行し、今一度お互いの過去を見つめ直す旅に出た。
 二ページ目はカフェで勉強している様子を当時のカメラ付き携帯電話で上手いこと収めた写真。
 タイトルは『惹かれ合う二人』。
 「もう付き合ってた? まだだよね?」
 「まだだよ。でも私もこの頃は意識してたな。いつも一緒に勉強してたし、微妙な距離感だったね」
 「惹かれ合う二人?」
 「なに?」
 夏珠の声色が鋭くなる。
 「いえ。なんでもないです」
 駅前のカフェでお勉強。どんどん近づく二人の距離。もう事実恋人みたいな既成事実が成り立ちそう。でもちゃんと言葉にしたいな。
 夏珠のコメントの「事実恋人」という表現に目が止まったのを夏珠も気がついたらしい。
 「事実婚みたいな。ずっと典型的な友達以上恋人未満な関係だったからさ。もう付き合ってるってことでいいのかなって」
 その写真の少し後に駅の裏を撮った写真があった。写っているのは俺の後ろ姿と何もない駅の裏側だ。
 タイトルは、『告白』。
 でもコメントがひどい。
 最悪。ホントに遥征くんのバカ。あんな形で付き合うことになるなんて。どっちからでもいいけどちゃんとムードのある感じで言葉にしたかったのに。バカバカバカバカバカ。
 付き合うきっかけとなったエピソード後の写真だ。俺は撮られたことは気づいてなかった。
 でも夏珠のコメントも頷ける。俺自身もなんてムードもへったくれもない告白なんだと思ったし。
 形としては夏珠がぽろっと俺に対する気持ちを言ってしまい、俺も慌てて気持ちを伝えた。でもそれは夏珠の告白に乗っかってる感じにとられても仕方ない。
 「この時は悪かったと思ってるよ。本当に」
 「ま、今思うと私たちらしい結ばれ方かなとも思わなくはないけどね」
 夏珠は少し遠くを見つめるように想いを馳せていた。
 タイトルは、『春の雪』。
 これはシンプルそのもの。俺と夏珠の秘密の場所。様々なアングルからシャッターが切られている。
 タイマーをかけ地面に置いて撮った写真もうまく撮れている。寄り添う二人のバックには満開の桜が今にも風を感じて大きく動きそうだった。
 公園の写真は夏祭りが行われる俺の家の近くだ。
 タイトルは、『緑に包まれて』。
 夏祭り以外の平時は緑豊かな公園だ。意外と知られてないがちょっとした丘を登る小道があって頂上はカップルの隠れた逢瀬の場として使われていた。ちょうどいい高さの手すりにカメラをセットし、緑に包まれた二人が眩しい笑顔を向けている。
 「さすがにお祭りのときはここも人がいっぱいだったね」
 「だね。でも登る途中の辺りはあまり人がいなかったから休憩にはよかったでしょ」
 隣のページにはお祭りの写真が何もない公園とうまく対比するように貼られている。
 タイトルは、『夏の真珠』
 「私の誕生日にってね。何もできないけどって遥征くんかわいかったな」
 暗がりで夏珠を抱きしめた。
 鮮明にその光景が瞼の奥に広がる。
 「あれ? ちょっと赤くなってんじゃない?」
 耳元で響く夏珠の声に過剰に反応してしまっていた。
 「なってないよ。ちょっとこの部屋暑いんじゃない?」
 「そう? 私は適温だけど」
 夏珠はわざとらしく空調を確認するふりをしてけたけたと笑う。
 「この浴衣さ、実はまだ持っててね、今でも着れるんだよ」
 淡い白にグラデーションの色合いのある桜が散りばめられたその浴衣は夏珠に本当によく似合っていた。あのときは見惚れてしまった。
 今の夏珠が着たらまた違って艶のある、それこそ可愛さの中に妖艶な感じを見出すだろう。
 「今ちょっと現在の私が着たとこ想像したでしょ? 綺麗でしょ?」
 俺の考えることはなんでも知っている。
 そのことになにか感じるものがあって言葉を発するのを忘れた。
 「なんで何も言わないの?」
 再び声色が変化する。
 「いや、ごめん。夏珠は俺のことなんでもわかるなって改めて思っちゃってさ」
 「遥征くんだって私のことなんでも知ってんじゃん」
 今こうして俺と夏珠が創り上げている空気を壊せる者などいるだろうか。このまま一歩も外に出ないで外界との接触を一切遮断した生活をしていけたなら。あまりに心地よい雰囲気のせいで心がふわふわと流れていくのがわかる。
 楽になっちゃえばいい。
 そんな声が聞こえてくるようだった。それは天使の声か、悪魔の声か。
 「遥征くん?」
 「ごめん、またぼーっとした。なんかつい昨日のことのように思い出せる、いや、思い出すって感じじゃないな、ずっと覚えてるのかな」
 他愛もない写真ですら夏珠の手にかかれば一つのイベントごとのようになる。そして俺もその写真やコメントを見ればそのときのことをはっきりと振り返ることができた。
 「あ、ここは俺が一番好きなとこ」
 タイトルは、『海の楽園』。
 八景島にある遊園地と水族館が一体となっているアミューズメントパークだ。何枚も夏珠はそのときの時間を切り取っていた。それらの写真を見るだけで俺と夏珠は不思議な心地の時間旅行を楽しむことができた。
 ここでのデートは最高。でも私は遥征くんと一緒であればどこにいても楽園なんだと思う。
 俺も同じことを思っていたことを覚えている。
 その後もプラネタリウム、ウインドーショッピング、時系列から外れながらも、学校に忍び込んだ写真、お互いの高校生の制服、様々な二人の想い出が宝石のようにキラキラと大事にそこには保存されていた。
 中華街から始まる写真のページに至り、覚悟していたはずの心に動揺が走る。
 タイトルは、『ベタベタデート』
 「夏珠、これって……」
 これより前のものは、それは楽しい気分でアルバム作成に取り組めていただろうが、最後を飾るその写真らはあの事件の後でしか作ることはできない。
 よく見ると筆跡がわずかに違う気がした。夏珠の字の癖をよく知る俺だから気づけるレベルのものだが、これはおそらく当時の作品ではない。写真自体はもちろん当時のものだが、まとめたのはつい最近、大人になった夏珠の手によるものだとわかった。
 「うん。中身を見てないってのは嘘。アルバム見つけてから最後のページを追加したの」 
 限界だった。
 俺の中の何かが大きく強く爆発するような、激しい感情の高ぶりが訪れ俺は夏珠を抱き寄せていた。
 「ごめん。一人にして。あの事件のことにもちゃんと向き合わなきゃって思って。今日はちゃんと夏珠と話そうと思って。最後のページなしで終われれば本当に煌めく素敵な想い出でくくれるのかもしれない。でも俺たちには続きがある。再び出会った今、どうしても目を背けてはいけないんだってやっとわかったんだ」
 「うん……」
 夏珠は泣いているようだった。
 「夏珠も同じ気持ちでいてくれたから、最後のページをこうして作ってくれたんでしょ? 辛い思いをさせてごめん」
 夏珠の抱きしめる力が強くなる。俺も同じ力でそれに応える。
 「遥征くん……ごめん……。私はあのとき何もできなかった。ううん、今に至るまでずっと遥征くんを裏切ったことに負い目を感じて何もできなかった。きっと遥征くんなら私のことを信じてくれてるって信じてた。でも信じれば信じるほど怖くなって……」
 夏珠の気持ちは痛いほどよくわかった。
 抱き合っていると夏珠の胸の鼓動が聞こえてくるようで今まさに夏珠が感じているであろう不安が伝わってくる。
 「夏珠が謝ることじゃない。俺だって夏珠とまったく同じことを考えてた。夏珠が俺をおいていくなんてことは絶対にしないと信じてた。でもやっぱり信じれば信じるほど、会いたくても会うのが怖くなった……」
 午後の陽射しが部屋いっぱいに差し込んでいる。暗い気持ちで考える必要はないとの自然の演出にも後押しされ、俺は夏珠に語りかける。
 「あの時とった行動に後悔もたくさんある。大通りを通ってればとか、もっと早く帰ってればとか、もっとうまく立ち回って逃げることができなかったのかとか。でもそれ以上に、事件後になんですぐ夏珠を追いかけなかったのか、なんで夏珠を待ち続けなかったのか、そっちのほうが後悔してる」
 「私にもできることはいっぱいあったはずなのに……。お父さんに逆らうこともできなかった」
 夏珠のその言葉にやっぱり夏珠の父親が大きく関与していたことが確信に変わった。
 「夏珠のお父さんが事件をなかったことにしてくれたんだね?」
 「遥征くん、何も聞いてないの?」
 どうやら夏珠の父親は俺と夏珠を何が何でも引き離そうと手を尽くしていたようだ。無理はないと思う。年頃の娘を遅くまで連れ回して傷害事件に巻き込むなど普通に考えて親なら誰もがそんな男などお引き取り願いたいだろう。
 「俺自身しばらく罪の意識に苛まれてた。危うく殺しかけたんだ。あれで人生すべて棒に振ってたっておかしくない。それを夏珠のお父さんに助けてもらったわけだから、俺はお父さんを悪くは言えない。憎むのは己の無力だと思う」
 「違う。あの人は金持ちの典型で家の評判を気にしてるだけ。遥征くんのことなんてこれっぽちも考えてくれてない」
 「それでも証言を俺の不利になるようにはしなかった。夏珠だけ助けることだってできたはずだよ」
 俺は夏珠の目に溜まる大粒の涙に指で触れた。
 ゆっくりと夏珠の涙が手から腕にかけてつたってくる。
 「夏珠の気持ちはよくわかるよ。俺が夏珠の立場ならまったく同じことを考えると思う。でも夏珠も俺の立場での気持ちがわかるんじゃないかな」
 何も言わないが夏珠のその顔はイエスの顔だと俺にはわかる。
 お互いに責任という意味じゃ思うところもあるだろうけれども、どちらが悪いとか言ったところで何も解決しないのは俺も夏珠もわかっている。
 「夏珠、俺は夏珠のことが今でも好きだ」
 あまりに唐突だと自分でも思ったが、言わずにはいられなかった。
 「ずっとずっと夏珠のことを想っていた」
 かすかに隣近所の生活の音が聞こえてくるだけでほぼ無音に近い夏珠の部屋はそれでも不思議と緊張感というものはなくなっていた。
 ほんの数秒くらいだろうか。夏珠は間を置くと、
 「知ってる」
 と、涙ながらにすべてを吹き払う笑顔でそう答えた。