春の雪と夏の真珠(第三十八話)

第三十八話

 皮肉だと思う。
 夏珠はきっと妻と子どもを捨てて自分の元に来るような俺を好きにはならない。妻と子どもを愛する俺が好きなんだと思う。
 なら、俺は妻と子どもを愛することで夏珠を幸せにするしかない。
 「でもね。今いる子たちの最後は見届けたいの。勝手なわがままなんだけどさ。だから三月三十一日だけ戻ってくるつもり」
 夏珠らしいと思った。そのまま年度末まで待つことのがいろいろと楽だとも思うのにそうせず一度福岡に帰る。そして一日だけ戻る。
 口には出さないがおそらく俺とのこともあるのだと思う。長く近くにいれば気持ちも揺らいだり変わったりすることは誰にだってある。一度決めたことを貫くには思い切った行動を要する。
 「もう決めてんだね。夏珠らしいや」
 「うん」
 気持ちを切り替えて食べることに集中した。辛気臭くては料理もまずくなると思い、くだらない話で料理を楽しんだ。
 外はもう真っ暗だった。この辺りはあまり街灯もなく、頼りとなるのは周辺住居の灯りのみだった。
 変に過去に囚われているわけではないものの、俺は遠回りでもいいから明るい大通りを行こうと提案した。けれどそれが駅までの最短ルートだよと夏珠に笑われた。
 はあーっと大きく夏珠が息を吐く。
 真っ白な息が暗闇にとても綺麗だ。
 「冬になるとついやりたくなるよね」
 「いつも一人でそんなことしてるの?」
 グーで思い切り殴られた。
 「一人でそんなことするか。遥征くんがいるからだよ」
 冬に頬を赤らめている夏珠は昔と変わらず可愛らしい。
 夏珠が福岡に帰るまではまだ少し時間がある。それでもこうして並んで歩くことが最後になるかのようにも思える。昔のように寄り添って歩いたり話したりするのがこれで最後だと感じている。
 残りの時間は当たり障りのない保育士と保護者の関係のまま過ごすのだと。言葉にしなくとも成り立つ暗黙の了解。最後まで以心伝心のような分かりあった関係を心苦しく思う。
 「遥征くん、まだ夢を追いかけてるの?」
 唐突に夏珠はそう俺に問いかけた。
 「小さくてもいいからお店みたいなものを持ちたいってやつのこと?」
 「うん」
 「そうだね。お店になるか会社になるかわからないけど、独立していきたいとは常々思ってるよ」
 「私もね……保育士の他にもう一つやってみたいことがあってね」
 夏珠からそんな話を聞くのは初めてだった。
 「学校の先生もやりたいんだ。教員免許は持ってるからさ、採用がかかればチャレンジしたいとも思ってるの」
 流れが多かった大通りの車が急に途絶えて静まりかえった。
 出る言葉すべてが響き渡りそうで思わず俺は何も言えなかった。
 そこで急に夏珠は笑い出した。
 「急に辺りが静かになって焦ったんでしょ?」
 夏珠はなんでも知っている。
 結局そのまま、夏珠が教師をやりたいという話はそれ以上の広がりを見せなかった。
 駅まで続く商店街が見えた。休日のこの時間でも電気は煌々として人の行き交いも多そうだった。
 あの商店街に入ったら夢が覚める。そんな気分だった。
 少しずつ近づく現実を受け入れるべく一歩一歩と歩みを進める。
 不意に夏珠に手を引かれた。
 突然のことだったため小さな夏珠の力にも抗うことができず、商店街の手前の小道に俺は引っ張られた。
 どうしたのと俺が聞くより早く夏珠はごめんと俺を抱きしめた。
 本当に最後の最後まで俺と夏珠は同じことを考えていたのだろう。
 「ごめん……。決めたのに。ちゃんと自分で決めたのに……」
 夏珠は声を押し殺して俺の胸で泣いていた。
 想い合う二人が結ばれない結末もまた運命なのだろうか。
 こんなにも夏珠のことを愛しているのに。それでも俺は妻をも愛しているなんて都合のいいことを思っているのかと自分でもわからなくなる。
 トラックの大きなクラクションが響いてはっとする。
 「夏珠……やっぱり……」
 その続きは夏珠の唇によって塞がれた。
 「遥征くん、大好きだよ……でもこれで終わり」
 今までの記憶が一気に頭の中を巡るようだった。
 どうして俺は夏珠だけを待ち続けることができなかったのか。
 どうして……。
 「遥征くん、奥さんを愛したからまたこうして私とも巡り会えたんだよ。これ以上もうあれこれ望んじゃダメだよ」
 涙ながらにそう言う夏珠は儚げで今にも消え入りそうで、一人にしたらこの寒さにも耐えきれないようにすら思えた。
 「私は大丈夫だから。ありがとう」
 一言も発しない俺の心の声をすべて理解して会話が成り立つ。
 それまでの雰囲気を一蹴する商店街の賑わいは俺にも夏珠にもかえって有り難かった。駅までの最後の直線を俺たち二人は笑って歩くことができたのだから。
 駅の改札は二人の世界を分かつ最後の分水嶺のようで、軽々しく越えることは躊躇われた。
 「夏珠、家まで送っていこうか?」
 俺は精一杯の無理をして冗談を言った。
 「バカ。それじゃお互い永遠に帰れないよ」
 泣き尽くしてすべての感情を露わにした後の夏珠の決意は固いということを伺わせるほどすっきりしたいい顔をしていた。
 女々しいのは俺の方だ。
 胸が冷たく凍る感覚をなんとか堪えながら今日一日、そして今までのことを感謝する。
 ピッと改札を通る際の音が容赦なく、虚しく響く。
 改札を抜けて左手にすぐ上らなければいけない階段があり、少しでも長く最後の別れの余韻に浸る猶予もない。
 本当に最後だ。
 夏珠に左手を上げて手を振る。夏珠も同じように手を振る。そして同時に俺たち二人は進むべき道を行った。
 電車はひどく空いていた。すかすかの自分の心の中を忠実に再現して浮き彫りにしたようで落ち着かない。
 長いようで短い一日。その程度のことしか考えることができなかった。座らずに力なくドアにもたれかかると、外のイルミネーションが妙に綺麗に映った。その光景はしばらく忘れられそうにないなと自嘲気味につい頬が緩んでしまった。
 「おかえり。あれ、全然酔ってないみたいだけど」
 妻がそう思ったとしてもそれは当然だ。一滴の酒も飲まずして酔えるはずはない。
 「昼から飲んでたからね。早くに切り替えて女の子みたくラーメンやらカフェやらで過ごしたおかげかな」
 苦しいいい訳だと思った。
 「女の子は締めのラーメンとかそんなオヤジ臭いことしない」
 俺は力なく笑った。
 「なんか大きな仕事一つやり切ったみたいな顔してんね。そんな熱く語り合ってきたの?」
 妻の慧眼もたいしたものだ。もしかしたら本当はすべてをお見通しなのかもしれない。
 妻とのこれまでの関係を考えると、いつかちゃんと話さなければならない気がした。そしてきっとわかってくれるようにも思えた。それでも今は気力も体力も限界だった。
 「ははは。ちょっと疲れちゃった。遊んでて言うことじゃないよね、ごめん」
 「いいよ。いつも頑張ってんじゃんか。もう今日はそのまま寝ちゃいな
よ。一日お休みってそゆことでいいと思うよ」
 妻の優しさは胸にくるものがあったが、それがなにを意味するのか思考回路はもう十分に機能していない。
 俺はそのままベッドに倒れ込み、すぐ意識がまどろむのを感じた。
 ものの数分落ちていただけのように思われた。それでも窓の外は光に満ちている。都会といえど鳥の囀りもちゃんと聞こえてくる。しっかりと時間は流れ、もう朝を迎えていた。