春の雪と夏の真珠(第十三話)

第十三話

 大道芸を見ていた観客の大きな歓声と拍手が響いた。
 俺が今見ている海は伊豆の海で、また過去を見ていたのだと気づいた。手に持つソフトクリームは一口も食べずにもう溶けて形を留めていなかった。
 「ちょっと食べないの? ベタベタじゃんよ」
 慌てて妻がウエットティッシュを取り出す。
 「ごめんごめん、食べるよ。ぼーっとしちゃった」
 「なんか最近うわの空になること多くない? 疲れてんの?」
 妻はやはり気がついている。自分でもぼけっとすることが多くなっている自覚があるだけに無理もないかと思うが、どう言い訳したものか。
 「なんだろ。五月病とかかな」
 特に大きく環境が変わっていないことなど妻にはバレバレだが、社会人に細かな人事が付きものなのは働いてる妻にもわかる。小さな変化も積み重なればストレスになる可能性があると思ってくれるかもしれない。
 「まあ、四月はいろいろとあるからね、ちょっと疲れてんのかもね」
 いろいろと。
 俺の中にある変化はたった一つだけ。だがその一つがとてつもなく大きな変化だった。季節に関係なく俺に影響を与えるものに違いないだろうが、桜の季節に起きたというのは演出としては出来すぎていた。
 今は桜が散り新緑の姿へと向かう。人も自然も次なるステップに移ろうとする季節だ。
 都合よく時系列順にエピソードがフラッシュバックして、過去の俺は夏という季節をまもなく終えるところにいた。
 実際は都合よく無意識を装った意識的なもの。俺は夏珠とのことを順序立てて思い起こしている。
 過去と現実に挟まれた時空間のなかで、時差ボケや見ている世界の齟齬が起きそうだった。
 旅館は古き良き日本を丁寧に残した、心地よい畳の香りがする広い和室だった。夕食までの時間に交代で温泉に行くことになり、俺と父親がまず二人で温泉に向かった。
 温泉は大浴場と露天風呂の二つからなる。露天風呂は沈む夕日に照らされた海が見える高台に設計された風情のあるものだった。
 夏珠と温泉に行ったことはなかったなと思いを馳せてしまった。存在する記憶だけじゃ飽き足らず存在しない記憶までも辿ってしまっているようで少し辟易した。
 「最近はどう? 仕事は忙しいのか?」
 景色を背にした父親が西日に反射する建物に目を細めながら聞いてくる。
 「四月に入るとやっぱり新入社員の教育とか新規の取引先とかちょこちょこと変化があるからね。忙しいってほどじゃないけどなにかと疲れることは多いかも」
 実際には俺の立ち位置はその両方に直接関わるようなものではなかったが、そのせいで余計な仕事が回ってきたりすることもあった。
 「でもゴールデンウィークしっかり休みがとれてよかった。体だけは大事にしないとな」
 そんな心配は俺が父親に対してしなきゃいけないことだ。まともに二人っきりで話をするなんてなかなかあることではなく、どこか話すのがよそよそしく照れくさくなる。実の親子なのに。実の親子だから。父と息子なんてそんなものなのだろう。凰佑もいつまで今みたいになんの気兼ねなく話しかけてくれるのだろう。
 父親には感謝している。ここまで育ててくれて、未だにあれこれ助けてもくれる。でも面と向かってその気持ちを伝えることはできなかった。情けないなと思う。ただ一言ありがとうがなぜ言えないのだろう。
 西日は水平線に消えかけていた。僅かな光がうっすらと海に残るのみとなり、空にはもう明るい星がいくつか自分の出番とばかりに輝いていた。
 気まずいとまではいかなくとも弾む会話があるわけではない。そんな状態は、妻たちが温泉へと出かけていなくなった部屋でも継続された。助けを求めてお茶を飲みながらテレビをつけると、東京の吉祥寺の特集がやっていた。
 「吉祥寺は面白い店がいっぱいあんだってな。一時期毎日のようにテレビで吉祥寺のことやってたよ」
 父親は吉祥寺に興味津々だ。さすがに毎日テレビとは言い過ぎだろうが、何年か連続で住みたい街ランキングのトップを走っていたためにメディアで取り上げられることも多かった。学生時代に俺が吉祥寺に住んでいた時期もあって、俺も父親も吉祥寺には親近感を覚えるようだ。
 「いいとこだったよ。小さなお店がたくさんあってさ。新しいのもあれば昔ながらの古いお店もあって。家に帰るまでに歩いてるだけでも十分に楽しめた」
 「でも今住んでるとこも栄えてるよな。なんでもあるだろ」
 今のところには凰佑が生まれる前から住んでるから四年くらいになる。東京と埼玉の県境にあるが新宿、池袋、上野、東京などの都心へのアクセスは抜群に良いターミナルで、駅周辺も大きなスーパーのほか大小様々な店がそろっている。商店街は下町の雰囲気を残し、地元民が飲み屋を明るく盛り上げている様子がよく見られた。
 「住みやすいね。住むまでは全然知らなかったけど。住んでみてよかった街ランキングなんてのもあって、それでけっこう上の方にくるみたい」
 テレビのおかげで自然と会話が続いてくれた。そうこうしていると長風呂をしない母親があっさり帰ってきて俺は解放された。すぐに妻と凰佑も帰ってきて部屋の中が騒がしくなる。子どもが場を掌握するパワーは絶大だと思うも、共通の会話が広がり有り難かった。
 夕食は古風な日本料理を想像していたのだが、案内された大広間にはビュッフェスタイルによる料理が和食洋食と様々に並んでいた。もともと食べ物にこだわりもなくどちらかと言えば俺も凰佑も好き嫌いが激しいので、このスタイルでの食事は好きなものだけを食べることができてよかった。
 凰佑はジュースを片手にパスタ、ハンバーグ、カレーといったお子様の定番をひたすら攻めて、締めにはデザートにソフトクリームを食べてご機嫌だった。
 俺や妻が食べ終わるのを待てるはずもなく段々と凰佑の落ち着きがなくなっていく。妻には悪いが席を外したくて俺は凰佑を連れて大広間を出てぶらぶらすることにした。
 旅館は外観も内装もいわゆる純日本風の作りではあったが、道路を挟んだ向かいの別館と地下でつながっているという変わった形をしていた。そのためかなり入り組んでいて、迷路のようで凰佑には喜ばしいものだった。どこの通りも見た目が同じで気をつけていないとすぐに迷ってしまいそうだった。
 水仙の絵が飾られている通りはさっきも来たように思えるが、微妙に雰囲気が違う気がする。道なりに進むとまったく同じ水仙の絵が飾られていた。わかりにくい構造のくせに同じ絵を飾るなんて不親切だろと迷った自分の土地勘を棚に上げて苛立った。
 そんなことお構いなしに凰佑は今もご機嫌に走り回っている。その凰佑が迷い込んだところは客用の共同で使う広いカラオケルームで、夜に来ようと話をしていた場所であることに気がついた。
 そこが別館にあると言ってたのを思い出し、自分たちがいつのまにか道路を挟んだ別館まで来てしまったことを知った。
 みな一同に夕食を楽しんでいるからか、旅館内は静かで誰ともすれ違うことがなかった。迷ったといっても旅館内にいるわけだからと別段不安に思うこともなかったが、妻たちが心配している恐れもある。
 「凰佑、ママたちのとこに戻るよ」
 そうは言うも来た道を引き返しては迷うだけだと思い、近くにあったエレベーターで地上に上がる。案の定のこと別館で、向かいと同じようにフロントがあったので事情を説明して道を案内してもらった。
 「道路渡ったほうが早いですね」
 笑顔でフロントの男の人にそう言われた。けっこうな頻度で同じように迷ってしまう人がいるのだとか。わかりにくい造りですみませんと頭を下げられた。
 本館のほうに戻ると妻が大広間から出てきて俺たちを探しているようだった。
 「ちょっとどこまで行ってたの? いないから心配しちゃったじゃんか。携帯も持っていかないしさ」
 「ごめん。迷路みたいでさ。地下つたって向かいのほうまで行ってたみたい」
 「めいろだお」
 凰佑はほんの小さな冒険をとても楽しんでくれた様子だ。一方で妻はそんな馬鹿父子に呆れ顔で溜息をついた。
 昔にもどこかで迷ったことがあったっけ。一緒にいたのは夏珠のような気がするがいまいち記憶が曖昧だ。夏珠とのことだと思うが、そうであればはっきりと思い出せないはずもないと思い、考えを退けた。今は少し家族サービスに集中しよう。