「雪の瞳に燃える炎」(第七話)
第七話
気温がかなり上昇していた。街は初夏の陽気で人々はかなり薄手の格好をしている。実際の収穫時期を光央は知らなかったが、バレンシアオレンジがなんとも似合う気候だと思った。
雑多に賑わう駅の前でも、彼女を見逃すことはなかった。先に着いて待っていると、彼女が近づいてくる方角がなぜだかわかった。目を向けると黒のスラックスに真っ白なブラウスを着た彼女がゆっくりとこちらに向かってきていた。道行く誰もが目を奪われ、思わず二度見してしまっていた。
流れる時間が遅い。すぐにでも抱き寄せたい衝動に駆られるほどなのに彼女はそのゆっくりとした歩調を決して変えることをしない。実際に彼女が遅いのではなく、彼女の生み出す時間の中に光央が入り込んでしまっていた。
「ちょっと歩くけど落ち着けるカフェがあるからそこでランチしようか」
挨拶など交わすまでもなく、光央と彼女は通じ合っているのだという幻想に囚われそうになる。まるで長いこと付き合っている二人のよう。今さら多くを語る必要など感じさせずに、彼女は歩き出す。
光央に拒否権などない。彼女は絶対だ。体が勝手に彼女を追いかける。そして隣に立つだけで光央はエネルギーをどんどんと消費していくのがわかる。
「スペインにはお祭り見に? もうすぐ帰るのかな?」
辺りは爆竹がガンガン鳴り響いていた。彼女は驚く様子もなく歩き続ける。爆竹の他にもファンファーレやら合奏やらが通りを盛り上げていた。次第に祭りが本格化してきていることが感じ取れた。周囲はかなりの喧騒に包まれている。それでも彼女の声は一音も漏らすことなく光央の頭の中で奏でられていた。
「一週間だけです」
彼女の静けさに反して光央は大きく声を張っていた。
「そっか」
光央はなんとなく空気が一瞬寂しげな色を帯びた気がした。
「スペインはもう長いんですよね? あまりに流暢なスペイン語だったからネイティブかと思ったくらい」
「全然。接客用語だけ叩き込んでるの。あなたのが上手だと思う」
「いや、俺はスペイン語は喋れないから……」
彼女は目を細めいかにも怪訝な顔という顔をした。だがその表情すらも魅力的で、ありとあらゆる彼女を知りたいと思った。
「友達みんなスペイン人なのに?」
「彼らとはイタリアで知り合ったんです。だから俺はイタリア語で会話してます。昨日いた二人はイタリア語が喋れて、一人はスペイン語しかできないけどなんとなくそれでも言ってることはわかるから」
光央の足元で爆竹が連続して爆発した。声こそかろうじて上げなかったが、みっともないくらい大きく仰け反ってしまった。
「大丈夫?」
そう言いながらも彼女は笑っていた。
「この爆竹なんなんです? 全然慣れない。夜はうるさくて眠れないし……」
彼女はなおも笑う。感情表現をこんなふうにする人なんだと少し近づけた気がした。
「あ、そういえば名前まだだね? 聞いていい?」
「あ、小畑光央です」
心無しか彼女の目が開かれたのを光央は見逃さなかった。
「へー、中央で光るの光央?」
名前に対してそんな返しをされたのは初めてだった。
「そうです。その光央」
「光央か。いい名前だね」
彼女は一人何かに納得するようにうんうんとご機嫌に頷いていた。
「あ、ごめん。わたしはユキ」
「ユキ?」
「うん。雪が降るの雪」
その名前からくる連想がそうさせたのか、彼女の周囲に光が集まり、雪の結晶のような煌めきが広がった。
本当に綺麗だと思って見ていたのは、放水していたホースが爆竹にコントロールを失って辺りに水を撒き散らしたことによって生まれたちょっとした奇蹟だった。
「雪さん」
「うん」
彼女にぴったりだと思った。熱くたぎる思いを胸に秘めているようでいて、どこか達観している。それは美しく結晶化された姿。熱さの対極ではなく、熱さの延長線上にこそ雪を冠する彼女はいる。
「どうして俺の誘いを受けてくれたんです? 自分でも後々になってなんであんなナンパみたいなこといきなり言っちゃたんだろうって……」
「うん? あまりにストレートな誘いだったからかな」
光央はそれ以上を聞くことができなかった。
常に主導権は雪にあった。大人の余裕が漂うこともそうだが、その目、その声を前にして態度を大きくとるなどということは光央にはできなかった。
随分と街の奥まで来た。人の流れが途絶え、辺りはひっそりと静かで、同じ祭りまっただ中のバレンシアとは明らかに異なっていた。
「スラム街なんて言ったら言い過ぎだけど、少し前まではそう呼ばれるに相応しいくらいの場所だったの」
今は開発も進み至るところが舗装され綺麗になりつつあるも、当時の名残と思しき面も所々に目に付いた。