「雪の瞳に燃える炎」(第八話)

第八話

 「今じゃ昼間は巡回したり治安維持にも力を入れてるから安全だけど夜は未だに犯罪の温床となってるとかってニュースでも見るし、そういった話も聞く」
 小汚いゴミ箱や浮浪者のいた痕跡を残した袋小路が至るところに見受けられる。昼間とはいえ、密集した建物の造りのために日があまり射さずに薄暗い。長居することはおろか、軽い気持ちで覗き込むことすらもためらわれた。
 「ごめん、ちょっと怖いよね。今行くとこはまったく安全だから心配しないで」
 このとき光央は疑心暗鬼に陥っていた。冷静に考えてみればあまりに万事うまく行き過ぎていると。光央のような男が声をかけて、街行く誰もが振り返るほどの世紀の美女がこうも簡単に釣れるのだろうか。逆に釣られたのは光央のほうなのではないか。空気が固くなる。街の熱気が冷めて涼しくなっている。額に薄くかいていた汗が急激に冷やされ、今度は暑いはずなのに冷や汗が滴り落ちそうだった。
 街を見るふりをして雪の数歩後ろを歩く。雪の身長は光央よりほんの少し小さい程度で、女性にしたら大きい。全身のシルエットはかなり細身だが出るとこは出る性的魅力も申し分ない。誰もが声をかけたくなるし、もし逆に声をかけられれば舞い上がり我を忘れる。そんな魔性とも言える美しさを雪は持っていた。
 年齢は光央よりも三つか四つくらい上だろうか。情報があまりに少なく今さら冷静に分析するには限度があった。
 「どしたの?」
 振り返り光央の目を真っ直ぐに見据える雪の目は、何もかも見透かしているかのような黒い輝きを放っている。
 「いや……」
 雪の目は有無を言わせない力を秘めていた。それが光央の被害妄想なのかどうか、あれこれ思いを巡らす思考能力もすべて奪い去る。今まで考えていたことがその目で見つめられることで露と消え、頭の中が真っ白になった。
 「ユキ」
 すぐそばで高いソプラノの声が響き、光央の緊張が一気に高まった。手足が震えていることに気づいたのはそのときだ。
 スレンダーというよりは華奢な若い女性が雪に抱きついた。その足元には小さな女の子がいた。
 「サラ、久しぶり」
 雪は熱い抱擁を交わし、そのまま足元の女の子にも話しかけていたが、あまりに自然なスペイン語だったこともあって光央は細かい内容までは聞き逃していた。
 地元の訛りが強く出た言葉なのか、ルイスやファビオが話すスペイン語とサラと呼ばれる女性のスペイン語は異なり、しっかりと耳を傾けていても光央にはほとんど理解が及ばなかった。
 求められるがままに光央はサラと握手をし、すぐ彼女たちは近くの家に入っていった。
 「今から行くカフェのオーナーの奥さんとその子ども。元々彼女と友達だったんだけど、その旦那さんがカフェをオープンさせたの」
 乱気流に呑まれて乱高下した心地は今なお残っていたが、一筋の光に向かってすがってもいいのかもしれないと光央はかすかな安堵を覚えた。それは幼子を持つ母親と知り合いという雪を見て、悪の片棒を担ぐなどとはとても思えないと感じたからで、またそうあってほしいという光央の願いでもあった。
 行き着いた先のカフェは悪とは真逆を行く純白の空間だった。徹底的に白を使った内装は外から射し込む光だけで十分に眩しく、清廉潔白を象徴しているかのようだった。しかしそれはわずか一滴の黒でも染まりゆく脆さもまたはらんでいる気がした。
 店内にお客は二組いた。小さなお店のため、光央と雪で三組となるともう席はそこそこ埋まっている印象を与えていた。オーナーらしき男性は雪に気づくと、笑みをこぼしてカウンターの中から歓迎の気持ちを表した。
 飲み物だけを注文すると、料理は自動的に運ばれてきた。出てくる料理はどれも綺麗な見た目を意識したもので、食べるのがもったいないと思わせるものが多かった。光央はつい食べ方を気にして、雪の所作を盗み見ながら場に相応しい態度を心がけた。
 「そんな固くならなくて平気だって。楽にして。気持ちはわかるけどね」
 雪は意地悪な笑みを浮かべて料理を口に運ぶ。その口元に思わず釘付けになってしまい慌てて視線をそらす。
 「もうお祭りは見て回ったの?」
 中性的な色合いの話題はあまり脳を使わずに済むので助かる。
 「見たっていうほどちゃんとはまだ。友達らはこれから盛り上がってくるからって言ってて一緒には見て回ってないです」
 「うん。ま、最終日だけでも十分だからね。日本では火祭りなんて呼ばれてるの知ってる?」
 「はい。何かが燃え上がるとは聞いたけど詳しくは聞いてないし調べてもないからさっぱりですけど。今のとこ爆竹ばかり印象に残って……」
 光央は意識をお腹の辺りに集中させていた。そうしていないと、ふとまた雪の魅力に取り込まれて我を忘れてしまいそうだった。
 「爆竹も演出の一つとして大事だけど、知らないなら当日知るほうがいい?」
 「いえ、見ようと思えばネットで見れたわけだし。たまたま見なかったってだけでネタバレみたいの全然気にならないから、言っちゃって構わないです」
 店内の音楽が曲と曲の合間で鳴り止み、ほんの一瞬すべてが無に帰った。