「雪の瞳に燃える炎」(第十一話)

第十一話

 環境の変化とは人の体に対して大きな負担を強いる。ただでさえ異国の地にて生活している身とあり、気付かないうちにストレスは大きくなっている。それに加えて、この旅はあまりに多くの「初体験」を光央にもたらした。その疲れが出たのか、マリオやファビオと街に繰り出すつもりだったが、体が重く体調が優れないのを理由に静養を取らざるを得なかった。
 雪からはその後なんの連絡もなかった。
 脱力感が重く光央の体につきまとう。記憶を辿ればすぐに雪の肌の温もりや感触が生々しく蘇った。光央は独りでいると雪のことばかり考えてしまう自分に気がついた。連絡をいれるべきなのか。雪とのベッドの上では迷うことなどなかったのに、今取るべき行動が光央にはまったくわからなかった。
 雪という女性が光央の恋人になる存在だとは思えなかった。それは未だミステリアスという部分の他に、根本的な何かがお互いに欠けているような感じを光央は払拭できないでいた。光央に残された滞在時間内で雪のことをもっと知る自信はなかった。光央がスペインを離れた後まで雪が連絡を取り合うとはとても考えられなかった。
 マリオの家は広い。
 この家に一人で住むということを光央はまったく想像できなかった。そこには寂しさだけが常に付きまとう。こういう時に限って爆竹の音はほとんど聞こえてこなかった。ひたすらに空気の震えない無音の空間がどこまでも広がっていた。
 無性に人肌が恋しくなる。光央が恋しく思う人肌など雪しかない。雪の肌の温もりしか知らない。若さゆえの性的衝動に駆られてしまった光央は、自分自身のコントロールがうまくできなくなっていた。鏡に映る自分は今こんな顔をしてるのかとじっとその顔を見つめる。光央はどこか大人の階段を登ったつもりでいた。けれども訪れた現実は、雪という女性に虜になったひとりの男が前と何も変わらず鏡にその姿を映し出しているというだけだった。
 無為に過ごす一日にも関わらず時間の流れは早い。光陰矢のごとしと諭されているかのようで、光央は自嘲気味に笑ってしまった。鏡に映るその顔はシニカルな笑みで、共に過ごす時間が多いマリオの癖をいつのまにか受け継いでしまっていた。
 それでも若さゆえか一日休んだだけで光央は体力的には問題のないコンディションになった。ただ胸がもやもやする感覚は残ったままだった。それは容易に恋煩いだと理解できた。
 昼過ぎにファビオの車で街の中心に行くと、これまでで一番多くの人で溢れかえっていた。向かった先は市庁舎広場で、近づけば近づくほど身動きの取れない人混みを行かねばならなくなった。
 「そろそろだ」
 マリオはファビオと共にシニカルな笑みを浮かべていた。まったく同じことが連日のように行われているのだろうか。そんな疑問が生じるのと同時に、それは再び突然のゲリラ豪雨のように激しい爆音を辺りにもたらした。
 同じ光景を一度見ていたのに、光央は戦火の只中に放り出されたような鬼気迫る爆発音にすくみあがった。白い煙はまたたく間に視界を塞ぎ、隣にいるマリオですらその姿が一瞬霞んで見えた。
 爆竹ショーが終わると人混みは様々な方向に流れていく。
 「街の人形をゆっくり見て回ろう」
 ファビオの低い声が衝撃波を直に受けたばかりの耳に優しく届けられた。
 街には「ファヤ」と呼ばれる張子人形がびっしりと置かれている。何度となく街を歩くのだからと、再び見るものと思って光央は意識をあまり「ファヤ」に向けていなかったが、いざ張子人形を見ようと思ってみるとそればかりが目に飛び込んでくることに気づいた。小さいものでも子どもの身長くらいの大きさはあり、立派な芸術作品としてカラフルでポップな色を誇示している。それぞれがその年の何らかの出来事を風刺しているらしく、作者のたっぷりの皮肉が込められているのだろう。
 大きいものは三階建て、四階建ての建物と同じくらい巨大なもので、やはりそれが紙でできているとはとても信じられない出来栄えだった。
 こうした大小様々な張子人形は街のあちこちに計六百ほど飾られているとのことだった。そしてこれらすべてが今夜一斉に燃やされるらしい。
 歩いていると、民族衣装を着た小学生くらいの女の子の集団が手に花束を持ち列になって行進しているところに出くわした。その一人一人の愛らしい姿に光央は釘付けになった。手に持つデジカメを構え何枚も何枚もその時間と空間を切り取っていく。日本人が珍しいのかカメラを向ける光央を行進する女の子の誰もが見ていた。
 しばらくの間、女の子のパレードを眺めた。そのまま彼女らが向かう先へと光央たちも向かった。以前に見たときは木の枠組みだけでスカスカだったマリア像の胴体が完成されていた。少女たちが持つ小さな花束一つ一つがマリア像の体、スカート、マントを鮮やかに仕立てていた。その盛大な演出はみなの力が一つになることを象徴しているようで、見ている誰もが拍手でその完成の様子を讃えていた。
 一度家に戻ってシエスタをし、軽く夕食を食べてから光央らは再び街に戻ってきた。深夜零時になるというのに街には昼間以上に人がいる。祭り最大の見どころがこの後に控えているという。誰もが今か今かと爆竹や奇声やダンスといったそれぞれの表現方法で内なる興奮を露わにしていた。
 場の雰囲気でもってまもなく事が始まるだろうことが伝わってくる。光央たちは四階建ての建物と建物の間に大きくそびえ立つ人形の前に陣取り、これから始まる光景を待ち望んでいた。
 「燃やすっていうけど火事になったりしたことないの?」
 初めて見る人間にしたら光央の質問は至極当然なはずだ。答えを聞くまでもなくマリオのシニカルな笑みが物語ってはいたが、
 「ほら。消防車がそこだけでも三台ある。すべての人形に対して消防車がスタンバイしてるから問題ない」
 横にいたファビオは得意満面でそう言う。
 そういう問題じゃないだろと突っ込みたくなる光央であったが、消防車が放水を始めたためついそちらに目が行ってしまった。放水は人形のすぐ両サイドにある建物に対してで、建物の側面全体に水をかけていた。見るとそれは普通のアパートメントのようで、各階の窓から人の姿が見て取れる。火が燃え移りにくくするために水をかけているのだろうが、中に住んでる人はどんな気持ちなのかと、光央はあまりに常識を外れた展開に驚きを隠せないでいた。
 そして、それは始まった。街から一斉に歓声が起こる。パチパチと拍手かと思うそれは、紙でできた人形を火が燃やす際に放たれる音。人垣で下の方は見えなかったが、火の粉が風に舞い上がる。しばらくすると光央たちのすぐ正面の温度が明らかに高いことに気がついた。見れば巨大な人形は、電気を落として暗くなった街で真っ赤に燃え上がっていた。火が徐々に力を増していき、その姿を炎へと変えた。白い煙、黒い煙、真紅の炎、そして、燃えるのを喜ぶ妖精の如くおびただしい数の火の粉が舞い散る。街の至るところでこれと同じことが起きている。キャンプファイヤーを目の前にしているときと似たような熱さを感じるが、規模も燃え上がる物の前提も大きく異なる。
 度々に放水があり建物を守る。そのすべてが圧倒的な光景で、常軌を逸した祭りのフィナーレに相応しく絢爛だった。
 炎をじっと見つめていると、光央の内にも燃え上がる何かがあるのを感じた。「光央」、「光央」と声が脳に直に響く気がした。光央は雪を思う。雪はこのフィナーレをどこかで見ている。好きだけど嫌いなこの祭りの最後を。雪の瞳に燃える炎はどのような意味を持ち、どのように見えているのだろうか。燃え上がるのは炎だけではない。光央の心の中にくすぶっていたものも今や大きく燃え上がっていた。
 「マリオ、ごめん」
 光央は走った。夜の街並みは昼に見た景色とは違っていて、人混みも手伝って方向感覚はないに等しかった。それでも感じるままに光央は走った。携帯電話で雪にかける。
 「会いたい。今から家に行く」
 電話に出た雪にそう一方的に言葉を投げ電話を切った。そして無我夢中に燃え盛る炎の中を走り抜けた。
 「光央」
 炎が届かないほど街の外れに出ると、暗闇の先、炎の輝きを持つ熱い声が響いた。燃え上がる想いが収まらないまま、真っ直ぐに雪を捉え、勢いそのまま光央は思い切り雪を抱きしめた。
 言葉など何もいらなかった。
 お互いにお互いを焼き尽くすほどの激しさで求めあった。体を重ねるたびに炎の勢いは増し、決して消えることなどないかのように思われた。
 光央はこの想いがまさしく恋であると信じて疑わなかった。それでも異国、お祭り、燃え盛る炎、行きずり、アバンチュール、そういった言葉が光央の頭にパチパチと燃え広がっていく。そして、何度となく雪とひとつになってさえ、雪の瞳に燃える炎が何かを知ることは叶わなかった。
 激しく燃え上がる恋だからこそその刹那に、燃え尽き儚くも消えてしまう。ただ一言、もう一歩踏み込むだけで雪との関係が変わるはずなのに。光央はそうしなかった。切なさという新たな炎に胸を焦がしながら。
 「ありがとう」
 どこまでも沁み入る透き通った声で、雪は涙とともにその一言をこの世界に送り出した。
 入り口の扉の脇に置かれた写真を今度はしっかりと光央はその目に刻み込んだ。光央本人であるはずはないが、子ども時代の光央によく似ていると光央自身がそう思う男の子の隣で、雪は天使に魅入られた宝石なような笑顔を浮かべていた。美しい天使の梯子が雪とその少年のもとに射されているのが印象的な一枚だった。
 バレンシアの朝日はオレンジの街に相応しい温かみを持っていた。光央はその朝日を背に、雪に最後のキスをした。そのとき光央の頬にも朝日に反射する一粒の宝石が輝いていた。
 祭りで燃やされた人形の残骸が見える。これをもってバレンシアに春の訪れがもたらされるという。光央のもとへ一足先に届いた春は勢い余って燃え尽きてしまったようだ。光央は通りの店のガラスに映る自分のシニカルな顔を見て微笑んだ。
 
 朝帰りしてマリオはそれはとても怪訝な顔をしていた。いつものシニカルな笑みは一向に出てこなかった。
 「心配したんだ。電話にも出ないし、迷って困ってるんじゃないかと」
 優しいマリオは怒ることはせず、けれども心配をかけたことを責めるようにねちねちと言葉を続けた。部屋にはファビオが大きな体をソファに埋めて眠っていた。
 納得のいく説明をするのは難しかったが、すべて本当のことを言うことも光央にはできなかった。バレンシアの地にて燃え上がった炎の物語はそっと自分の心の中に留めておきたかった。
 空港にて、マリオは最後まで急にいなくなったことを冗談めかしてだがくどくどと言っていた。それがマリオの優しさでもあると光央は理解していた。心配してくれているが、踏み込んでまでは何があったかは聞かない。マリオと熱い抱擁を交わし、光央はバレンシアを、スペインを去る。
 搭乗直前、光央は携帯を取り出し、雪の名前を表示させる。春にしては強い陽射しが画面を白く見にくくしていた。そして、光央は雪の名前を削除した。
 燃え盛る炎のあと、春の訪れとともに、雪は美しく消え去った。