「雪の瞳に燃える炎」(第十話)

第十話

 カーテンを閉め切っていても午後の陽射しで部屋は明るい。目が慣れてしまった今となっては暗さなど微塵も感じない。
 隙間なく爆発する爆竹のよう、怒涛の流れのまま、光央は雪の隣で体を横たえていた。天から降り注ぐ雪のように白より真っ白な肌には服を脱ぐまで気が付かなかった。薄暗がりのなかでも雪の体は光を帯びて浮かび上がっていた。
 光央はようやくゆっくりと息を吸って吐くことができた。
 「ごめんね」
 雪のその言葉にはどのような意味が込められているのか。光央は何も聞かなかった。雪もまたそのときようやくひと呼吸できたようで、わずかな呼吸の音が無音の部屋の空気をかすかに震わせていた。雪はその沈黙で何を考えているのか。光央はようやく追いついてきた思考を整理すべく、「初体験」を実体の伴った形にしようと思いを馳せる。
 広場に続く小道にて雪を抱きしめてすぐ光央たちは移動した。無言のまま、喧騒のなか何も聞こえない二人だけの空間を作った。そのなかで寄り添って手を取り合いひたすら走った。
 光央は雪の部屋になだれ込んだ。薄暗い部屋、今なお涙が頬を伝う雪を光央は抱いた。光央はただ本能の赴くままに動いた。自分の欲を満たしたいという下心は皮肉にもその瞬間にはどこかに吹き飛んでいた。光央と雪は今このときこうなることが決まっていた。お互いにそう考えているんだと光央は思った。
 抱き合いキスをした。改めて雪の細身だが肉感のある温かく柔らかい体の感触に脳がうずく。雪のくちびるはうずいた脳をさらに痺れさせ真っ白にさせた。そのくちびるに光央のくちびるが触れただけで全身の力が抜けていった。光央は体の芯からすべてを雪に持っていかれた。
 真っ白になった頭で光央は必死に雪の呼吸を感じた。その呼吸に合わせるように光央はくちびるで雪の全身を二人だけの空間の中に切り取り、浮かび上がらせた。柔らかく温かい雪の体が反応するのがわかる。裸の女性をヴィーナスに例える男性の気持ちがわかる気がした。完璧なまでの美しい裸体に散りばめられた甘い果実を、光央は繊細なものを扱うように丁寧に触れ、味わった。
 雪という女性の体の一つひとつがこの航海の地図となった。光央は進むべき進路を迷わなかった。雪とひとつになる。その瞬間、自分の身体がどこにあるのかわからないほど脱力し、情けない声が出そうになった。どんどんと、だがゆっくりと奥まで帆を進めていく。うっすらと歪む雪の表情は光央という帆船の推進力を調整した。薄く目を開き雪は「光央」とその名を呼ぶ。目の前にいる光央がその瞳に映っているのに、より遠くの誰かを見つめているように悦の視線が遠くを漂う。だが光央に考えを巡らせる余裕はなかった。雪が溶けるのと同時に光央も全身が完全に溶けていくのを感じた。
 雪と体を重ねたことを思い出すだけで光央の体は言葉にしつくせない想いにとらわれる。冷静に落ち着いた今頃になってようやく、初めて事を交えた緊張感が溢れてくる。どうしてこのようなことになったのか光央は本当にわからなかった。思えば出会った瞬間から頭の片隅にはそう願っていた自分がいたはずだった。それでも美の女神の恩恵を与るこれほどの女性と自分がひとつになるなんて、生まれたままの姿でベッドを共にしている今でもそれが現実だと信じることは難しかった。
 「ごめんね」
 再び雪はそう漏らした。
 シーツの中で光央はただ黙って雪の小さな手をそっと握った。
 二時間ほど二人はベッドの中で寄り添っていた。外は西日が朱く街を染め始めていくころだった。雪がふわりとした寝息を立てている間、光央はただ規則正しく脈打つ雪の体の温もりを感じ入っていた。
 関係を持ったというのに今なおお互いのことはほとんど知らない。光央から見た雪という女性はミステリアスなまま。
 雪を起こさないまま光央は部屋を出ようとした。音を立てないように扉を閉めかけたそのわずかな瞬間に入り口の脇に置かれた写真が目に入った。角度が悪くはっきりと見えたわけではなかったが、光央にはそこに写るのが雪と幼き頃の自分のように見えた。閉められた扉は鍵なくしてもう外から開けることはできない。光央は今見たものがなんだったのか、単なる気のせいだったのか、なおも残る胸の高鳴りが邪魔してうまく考えることができなかった。
 明日も快晴を予想させる見事な茜色の夕日に染まった街並みは中世に迷い込んだかのよう。身分の違う叶わぬ恋をする悲劇の主人公を思いながら、まどろむ意識のなかマリオの家を目指した。