「雪の瞳に燃える炎」(第十一話)

第十一話

 環境の変化とは人の体に対して大きな負担を強いる。ただでさえ異国の地にて生活している身とあり、気付かないうちにストレスは大きくなっている。それに加えて、この旅はあまりに多くの「初体験」を光央にもたらした。その疲れが出たのか、マリオやファビオと街に繰り出すつもりだったが、体が重く体調が優れないのを理由に静養を取らざるを得なかった。
 雪からはその後なんの連絡もなかった。
 脱力感が重く光央の体につきまとう。記憶を辿ればすぐに雪の肌の温もりや感触が生々しく蘇った。光央は独りでいると雪のことばかり考えてしまう自分に気がついた。連絡をいれるべきなのか。雪とのベッドの上では迷うことなどなかったのに、今取るべき行動が光央にはまったくわからなかった。
 雪という女性が光央の恋人になる存在だとは思えなかった。それは未だミステリアスという部分の他に、根本的な何かがお互いに欠けているような感じを光央は払拭できないでいた。光央に残された滞在時間内で雪のことをもっと知る自信はなかった。光央がスペインを離れた後まで雪が連絡を取り合うとはとても考えられなかった。
 マリオの家は広い。
 この家に一人で住むということを光央はまったく想像できなかった。そこには寂しさだけが常に付きまとう。こういう時に限って爆竹の音はほとんど聞こえてこなかった。ひたすらに空気の震えない無音の空間がどこまでも広がっていた。
 無性に人肌が恋しくなる。光央が恋しく思う人肌など雪しかない。雪の肌の温もりしか知らない。若さゆえの性的衝動に駆られてしまった光央は、自分自身のコントロールがうまくできなくなっていた。鏡に映る自分は今こんな顔をしてるのかとじっとその顔を見つめる。光央はどこか大人の階段を登ったつもりでいた。けれども訪れた現実は、雪という女性に虜になったひとりの男が前と何も変わらず鏡にその姿を映し出しているというだけだった。
 無為に過ごす一日にも関わらず時間の流れは早い。光陰矢のごとしと諭されているかのようで、光央は自嘲気味に笑ってしまった。鏡に映るその顔はシニカルな笑みで、共に過ごす時間が多いマリオの癖をいつのまにか受け継いでしまっていた。
 それでも若さゆえか一日休んだだけで光央は体力的には問題のないコンディションになった。ただ胸がもやもやする感覚は残ったままだった。それは容易に恋煩いだと理解できた。
 昼過ぎにファビオの車で街の中心に行くと、これまでで一番多くの人で溢れかえっていた。向かった先は市庁舎広場で、近づけば近づくほど身動きの取れない人混みを行かねばならなくなった。
 「そろそろだ」
 マリオはファビオと共にシニカルな笑みを浮かべていた。まったく同じことが連日のように行われているのだろうか。そんな疑問が生じるのと同時に、それは再び突然のゲリラ豪雨のように激しい爆音を辺りにもたらした。
 同じ光景を一度見ていたのに、光央は戦火の只中に放り出されたような鬼気迫る爆発音にすくみあがった。白い煙はまたたく間に視界を塞ぎ、隣にいるマリオですらその姿が一瞬霞んで見えた。
 爆竹ショーが終わると人混みは様々な方向に流れていく。
 「街の人形をゆっくり見て回ろう」
 ファビオの低い声が衝撃波を直に受けたばかりの耳に優しく届けられた。
 街には「ファヤ」と呼ばれる張子人形がびっしりと置かれている。何度となく街を歩くのだからと、再び見るものと思って光央は意識をあまり「ファヤ」に向けていなかったが、いざ張子人形を見ようと思ってみるとそればかりが目に飛び込んでくることに気づいた。小さいものでも子どもの身長くらいの大きさはあり、立派な芸術作品としてカラフルでポップな色を誇示している。それぞれがその年の何らかの出来事を風刺しているらしく、作者のたっぷりの皮肉が込められているのだろう。
 大きいものは三階建て、四階建ての建物と同じくらい巨大なもので、やはりそれが紙でできているとはとても信じられない出来栄えだった。
 こうした大小様々な張子人形は街のあちこちに計六百ほど飾られているとのことだった。そしてこれらすべてが今夜一斉に燃やされるらしい。
 歩いていると、民族衣装を着た小学生くらいの女の子の集団が手に花束を持ち列になって行進しているところに出くわした。その一人一人の愛らしい姿に光央は釘付けになった。手に持つデジカメを構え何枚も何枚もその時間と空間を切り取っていく。日本人が珍しいのかカメラを向ける光央を行進する女の子の誰もが見ていた。
 しばらくの間、女の子のパレードを眺めた。そのまま彼女らが向かう先へと光央たちも向かった。以前に見たときは木の枠組みだけでスカスカだったマリア像の胴体が完成されていた。少女たちが持つ小さな花束一つ一つがマリア像の体、スカート、マントを鮮やかに仕立てていた。その盛大な演出はみなの力が一つになることを象徴しているようで、見ている誰もが拍手でその完成の様子を讃えていた。
 一度家に戻ってシエスタをし、軽く夕食を食べてから光央らは再び街に戻ってきた。深夜零時になるというのに街には昼間以上に人がいる。祭り最大の見どころがこの後に控えているという。誰もが今か今かと爆竹や奇声やダンスといったそれぞれの表現方法で内なる興奮を露わにしていた。
 場の雰囲気でもってまもなく事が始まるだろうことが伝わってくる。光央たちは四階建ての建物と建物の間に大きくそびえ立つ人形の前に陣取り、これから始まる光景を待ち望んでいた。
 「燃やすっていうけど火事になったりしたことないの?」
 初めて見る人間にしたら光央の質問は至極当然なはずだ。答えを聞くまでもなくマリオのシニカルな笑みが物語ってはいたが、
 「ほら。消防車がそこだけでも三台ある。すべての人形に対して消防車がスタンバイしてるから問題ない」
 横にいたファビオは得意満面でそう言う。
 そういう問題じゃないだろと突っ込みたくなる光央であったが、消防車が放水を始めたためついそちらに目が行ってしまった。放水は人形のすぐ両サイドにある建物に対してで、建物の側面全体に水をかけていた。見るとそれは普通のアパートメントのようで、各階の窓から人の姿が見て取れる。火が燃え移りにくくするために水をかけているのだろうが、中に住んでる人はどんな気持ちなのかと、光央はあまりに常識を外れた展開に驚きを隠せないでいた。
 そして、それは始まった。街から一斉に歓声が起こる。パチパチと拍手かと思うそれは、紙でできた人形を火が燃やす際に放たれる音。人垣で下の方は見えなかったが、火の粉が風に舞い上がる。しばらくすると光央たちのすぐ正面の温度が明らかに高いことに気がついた。見れば巨大な人形は、電気を落として暗くなった街で真っ赤に燃え上がっていた。火が徐々に力を増していき、その姿を炎へと変えた。白い煙、黒い煙、真紅の炎、そして、燃えるのを喜ぶ妖精の如くおびただしい数の火の粉が舞い散る。街の至るところでこれと同じことが起きている。キャンプファイヤーを目の前にしているときと似たような熱さを感じるが、規模も燃え上がる物の前提も大きく異なる。
 度々に放水があり建物を守る。そのすべてが圧倒的な光景で、常軌を逸した祭りのフィナーレに相応しく絢爛だった。
 炎をじっと見つめていると、光央の内にも燃え上がる何かがあるのを感じた。「光央」、「光央」と声が脳に直に響く気がした。光央は雪を思う。雪はこのフィナーレをどこかで見ている。好きだけど嫌いなこの祭りの最後を。雪の瞳に燃える炎はどのような意味を持ち、どのように見えているのだろうか。燃え上がるのは炎だけではない。光央の心の中にくすぶっていたものも今や大きく燃え上がっていた。
 「マリオ、ごめん」
 光央は走った。夜の街並みは昼に見た景色とは違っていて、人混みも手伝って方向感覚はないに等しかった。それでも感じるままに光央は走った。携帯電話で雪にかける。
 「会いたい。今から家に行く」
 電話に出た雪にそう一方的に言葉を投げ電話を切った。そして無我夢中に燃え盛る炎の中を走り抜けた。
 「光央」
 炎が届かないほど街の外れに出ると、暗闇の先、炎の輝きを持つ熱い声が響いた。燃え上がる想いが収まらないまま、真っ直ぐに雪を捉え、勢いそのまま光央は思い切り雪を抱きしめた。
 言葉など何もいらなかった。
 お互いにお互いを焼き尽くすほどの激しさで求めあった。体を重ねるたびに炎の勢いは増し、決して消えることなどないかのように思われた。
 光央はこの想いがまさしく恋であると信じて疑わなかった。それでも異国、お祭り、燃え盛る炎、行きずり、アバンチュール、そういった言葉が光央の頭にパチパチと燃え広がっていく。そして、何度となく雪とひとつになってさえ、雪の瞳に燃える炎が何かを知ることは叶わなかった。
 激しく燃え上がる恋だからこそその刹那に、燃え尽き儚くも消えてしまう。ただ一言、もう一歩踏み込むだけで雪との関係が変わるはずなのに。光央はそうしなかった。切なさという新たな炎に胸を焦がしながら。
 「ありがとう」
 どこまでも沁み入る透き通った声で、雪は涙とともにその一言をこの世界に送り出した。
 入り口の扉の脇に置かれた写真を今度はしっかりと光央はその目に刻み込んだ。光央本人であるはずはないが、子ども時代の光央によく似ていると光央自身がそう思う男の子の隣で、雪は天使に魅入られた宝石なような笑顔を浮かべていた。美しい天使の梯子が雪とその少年のもとに射されているのが印象的な一枚だった。
 バレンシアの朝日はオレンジの街に相応しい温かみを持っていた。光央はその朝日を背に、雪に最後のキスをした。そのとき光央の頬にも朝日に反射する一粒の宝石が輝いていた。
 祭りで燃やされた人形の残骸が見える。これをもってバレンシアに春の訪れがもたらされるという。光央のもとへ一足先に届いた春は勢い余って燃え尽きてしまったようだ。光央は通りの店のガラスに映る自分のシニカルな顔を見て微笑んだ。
 
 朝帰りしてマリオはそれはとても怪訝な顔をしていた。いつものシニカルな笑みは一向に出てこなかった。
 「心配したんだ。電話にも出ないし、迷って困ってるんじゃないかと」
 優しいマリオは怒ることはせず、けれども心配をかけたことを責めるようにねちねちと言葉を続けた。部屋にはファビオが大きな体をソファに埋めて眠っていた。
 納得のいく説明をするのは難しかったが、すべて本当のことを言うことも光央にはできなかった。バレンシアの地にて燃え上がった炎の物語はそっと自分の心の中に留めておきたかった。
 空港にて、マリオは最後まで急にいなくなったことを冗談めかしてだがくどくどと言っていた。それがマリオの優しさでもあると光央は理解していた。心配してくれているが、踏み込んでまでは何があったかは聞かない。マリオと熱い抱擁を交わし、光央はバレンシアを、スペインを去る。
 搭乗直前、光央は携帯を取り出し、雪の名前を表示させる。春にしては強い陽射しが画面を白く見にくくしていた。そして、光央は雪の名前を削除した。
 燃え盛る炎のあと、春の訪れとともに、雪は美しく消え去った。

「雪の瞳に燃える炎」(第十話)

第十話

 カーテンを閉め切っていても午後の陽射しで部屋は明るい。目が慣れてしまった今となっては暗さなど微塵も感じない。
 隙間なく爆発する爆竹のよう、怒涛の流れのまま、光央は雪の隣で体を横たえていた。天から降り注ぐ雪のように白より真っ白な肌には服を脱ぐまで気が付かなかった。薄暗がりのなかでも雪の体は光を帯びて浮かび上がっていた。
 光央はようやくゆっくりと息を吸って吐くことができた。
 「ごめんね」
 雪のその言葉にはどのような意味が込められているのか。光央は何も聞かなかった。雪もまたそのときようやくひと呼吸できたようで、わずかな呼吸の音が無音の部屋の空気をかすかに震わせていた。雪はその沈黙で何を考えているのか。光央はようやく追いついてきた思考を整理すべく、「初体験」を実体の伴った形にしようと思いを馳せる。
 広場に続く小道にて雪を抱きしめてすぐ光央たちは移動した。無言のまま、喧騒のなか何も聞こえない二人だけの空間を作った。そのなかで寄り添って手を取り合いひたすら走った。
 光央は雪の部屋になだれ込んだ。薄暗い部屋、今なお涙が頬を伝う雪を光央は抱いた。光央はただ本能の赴くままに動いた。自分の欲を満たしたいという下心は皮肉にもその瞬間にはどこかに吹き飛んでいた。光央と雪は今このときこうなることが決まっていた。お互いにそう考えているんだと光央は思った。
 抱き合いキスをした。改めて雪の細身だが肉感のある温かく柔らかい体の感触に脳がうずく。雪のくちびるはうずいた脳をさらに痺れさせ真っ白にさせた。そのくちびるに光央のくちびるが触れただけで全身の力が抜けていった。光央は体の芯からすべてを雪に持っていかれた。
 真っ白になった頭で光央は必死に雪の呼吸を感じた。その呼吸に合わせるように光央はくちびるで雪の全身を二人だけの空間の中に切り取り、浮かび上がらせた。柔らかく温かい雪の体が反応するのがわかる。裸の女性をヴィーナスに例える男性の気持ちがわかる気がした。完璧なまでの美しい裸体に散りばめられた甘い果実を、光央は繊細なものを扱うように丁寧に触れ、味わった。
 雪という女性の体の一つひとつがこの航海の地図となった。光央は進むべき進路を迷わなかった。雪とひとつになる。その瞬間、自分の身体がどこにあるのかわからないほど脱力し、情けない声が出そうになった。どんどんと、だがゆっくりと奥まで帆を進めていく。うっすらと歪む雪の表情は光央という帆船の推進力を調整した。薄く目を開き雪は「光央」とその名を呼ぶ。目の前にいる光央がその瞳に映っているのに、より遠くの誰かを見つめているように悦の視線が遠くを漂う。だが光央に考えを巡らせる余裕はなかった。雪が溶けるのと同時に光央も全身が完全に溶けていくのを感じた。
 雪と体を重ねたことを思い出すだけで光央の体は言葉にしつくせない想いにとらわれる。冷静に落ち着いた今頃になってようやく、初めて事を交えた緊張感が溢れてくる。どうしてこのようなことになったのか光央は本当にわからなかった。思えば出会った瞬間から頭の片隅にはそう願っていた自分がいたはずだった。それでも美の女神の恩恵を与るこれほどの女性と自分がひとつになるなんて、生まれたままの姿でベッドを共にしている今でもそれが現実だと信じることは難しかった。
 「ごめんね」
 再び雪はそう漏らした。
 シーツの中で光央はただ黙って雪の小さな手をそっと握った。
 二時間ほど二人はベッドの中で寄り添っていた。外は西日が朱く街を染め始めていくころだった。雪がふわりとした寝息を立てている間、光央はただ規則正しく脈打つ雪の体の温もりを感じ入っていた。
 関係を持ったというのに今なおお互いのことはほとんど知らない。光央から見た雪という女性はミステリアスなまま。
 雪を起こさないまま光央は部屋を出ようとした。音を立てないように扉を閉めかけたそのわずかな瞬間に入り口の脇に置かれた写真が目に入った。角度が悪くはっきりと見えたわけではなかったが、光央にはそこに写るのが雪と幼き頃の自分のように見えた。閉められた扉は鍵なくしてもう外から開けることはできない。光央は今見たものがなんだったのか、単なる気のせいだったのか、なおも残る胸の高鳴りが邪魔してうまく考えることができなかった。
 明日も快晴を予想させる見事な茜色の夕日に染まった街並みは中世に迷い込んだかのよう。身分の違う叶わぬ恋をする悲劇の主人公を思いながら、まどろむ意識のなかマリオの家を目指した。

「雪の瞳に燃える炎」(第九話)

第九話

 雪は祭りの詳細を語った。
 遠くを見つめるその目には何が映っているのだろうか。懐かしむようでいて、悲しみの色合いが含まれているようにも光央は感じた。雪の言葉によって震える空気はいつだって色を帯びる。語られる言葉と帯びた色が合わなければ、それは嘘という可能性が高くなる。けれども雪の語る言葉はどれも、目にも耳にも無垢な境地を届けていた。
 「雪さんは祭りが好き? それとも嫌い?」
 フランチェスカのような例もあるので、ふとそんなことを聞いてしまった。
 温かくも冷たい表情。中性的とは違う、雪の本質を表す顔。
 「好きだけど嫌いかな」
 そっと震える空気は複雑な色合いを帯びて霞のように静かにゆっくりと消えていった。
 沈黙もまた心地よい。この緊張感のなかでそう光央は思った。
 多くを語らないミステリアスな女性。そのイメージを壊すことは、雪との関係をも壊すことになる気がした。雪のことが知りたいと思う一方で知りたくないとも強く感じた。
 光央は自分の気持ちを持て余していた。これを「恋」と呼んでもいいものか。行きずりのアバンチュールを求めるような煩悩は意識の底に少なからずあった。ただ、雪をものにしたいなんておこがましく恐れ多いとすら思ってしまう。それでも、せめて雪のものになりたいという願望が頭をよぎる。雪にならどんな目に合わされてもいいかもしれない。
 光央は冷静だった。第三者の目で客観的に自分を見れていると自覚しているのに、そのとんでもない思考を打ち消すことができなかった。
 「泡沫であれ夢うつつに溺れているときは幸せなんだから」
 ふと雪が口にしたその言葉は、光央の頭を巡っていた形にならないもやもやとしたものに命を吹き込む魔法の言葉だった。もちろん雪は光央が考えていることとは違う視点で発言をしていたのだろうが、二人が運命的な結びつきの元にあると光央に感じさせるにはもう十分すぎる演出の多さだった。
 時計に目をやると同時、雪はいきなり立ち上がる。
 「行こう」
 雪はオーナーに何か言葉をかけるとお金も払わず飛び出して行った。光央は訳がわからないまま笑顔のオーナーに向かって頭を下げ店を出て雪の後を追った。
 歩くスピードが速い。けれど雪が歩くと周囲の時間が止まっているかのようにゆっくりと流れていった。どんどん道行く人を追い抜き、街の中心へと戻って行く。雪は光央が付いてきていることを確認しないまま突き進んだ。
 光央が二日目に街を散策したときに見た市庁舎が見えてきた。辺りには妙に人が集まっていて、このままでは雪を見失いそうだと光央は危惧した。幸い、雪も同じことを思ったのか、光央がいることを初めて確認したうえで迂回して細い道を入り奥へと進む。
 「見るものじゃないから、ここでいい」
 光央にはどういう意味なのかよくわからなかった。雪と横並びに立った前には市庁舎広場に向かって道をびっしりと埋める人の列ができていた。何が始まるのかわからないが、周囲の人々の今か今かと待ちわびる緊張感は伝わってくる。
 バンと爆竹が大きく鳴り響いた。それに続けと連続して爆竹が響く。いつもの地元民が投げ放つものとは何か違うと光央が直感的に思うのとほぼ同時に、信じられないくらいの凄まじい爆音が響き始めた。どれだけの爆竹が一斉に放たれたのか、その規模はどうなっているのか。鼓膜を直に刺激する爆発に体までもがびりびりする。真っ白な煙が立ち込める視界はほぼ何も見えない。その圧倒的スケールの演出に心が揺さぶられた。
 その爆音のさなか、「光央」と呼ぶ声を聞いた気がした。隣を見ると、雪のその絶対的な力を宿した目から透明な宝石の輝きが滴り落ちていた。そして再び、「光央」と、すぐ隣にいる光央を呼ぶようでいて決して手が届かない遠くの誰かを求めるような、そんな声を光央は感じた。
 先ほど雪が言った「見るものじゃないから」という言葉を思い出す。きっと雪は今まさに何かを感じている。その瞳に映るものに心を満たされている。
 音が止んでなお耳には轟音が張り付いたままの感覚が残る。光央は雪の手を握っていた。そしてそのまま引き寄せ強く抱きしめた。白い煙に包まれたバレンシアの街には光央と雪のほか誰もいない。二人だけの時間がそこに確かに刻まれていた。

「雪の瞳に燃える炎」(第八話)

第八話

 「今じゃ昼間は巡回したり治安維持にも力を入れてるから安全だけど夜は未だに犯罪の温床となってるとかってニュースでも見るし、そういった話も聞く」
 小汚いゴミ箱や浮浪者のいた痕跡を残した袋小路が至るところに見受けられる。昼間とはいえ、密集した建物の造りのために日があまり射さずに薄暗い。長居することはおろか、軽い気持ちで覗き込むことすらもためらわれた。
 「ごめん、ちょっと怖いよね。今行くとこはまったく安全だから心配しないで」
 このとき光央は疑心暗鬼に陥っていた。冷静に考えてみればあまりに万事うまく行き過ぎていると。光央のような男が声をかけて、街行く誰もが振り返るほどの世紀の美女がこうも簡単に釣れるのだろうか。逆に釣られたのは光央のほうなのではないか。空気が固くなる。街の熱気が冷めて涼しくなっている。額に薄くかいていた汗が急激に冷やされ、今度は暑いはずなのに冷や汗が滴り落ちそうだった。
 街を見るふりをして雪の数歩後ろを歩く。雪の身長は光央よりほんの少し小さい程度で、女性にしたら大きい。全身のシルエットはかなり細身だが出るとこは出る性的魅力も申し分ない。誰もが声をかけたくなるし、もし逆に声をかけられれば舞い上がり我を忘れる。そんな魔性とも言える美しさを雪は持っていた。
 年齢は光央よりも三つか四つくらい上だろうか。情報があまりに少なく今さら冷静に分析するには限度があった。
 「どしたの?」
 振り返り光央の目を真っ直ぐに見据える雪の目は、何もかも見透かしているかのような黒い輝きを放っている。
 「いや……」
 雪の目は有無を言わせない力を秘めていた。それが光央の被害妄想なのかどうか、あれこれ思いを巡らす思考能力もすべて奪い去る。今まで考えていたことがその目で見つめられることで露と消え、頭の中が真っ白になった。
 「ユキ」
 すぐそばで高いソプラノの声が響き、光央の緊張が一気に高まった。手足が震えていることに気づいたのはそのときだ。
 スレンダーというよりは華奢な若い女性が雪に抱きついた。その足元には小さな女の子がいた。
 「サラ、久しぶり」
 雪は熱い抱擁を交わし、そのまま足元の女の子にも話しかけていたが、あまりに自然なスペイン語だったこともあって光央は細かい内容までは聞き逃していた。
 地元の訛りが強く出た言葉なのか、ルイスやファビオが話すスペイン語とサラと呼ばれる女性のスペイン語は異なり、しっかりと耳を傾けていても光央にはほとんど理解が及ばなかった。
 求められるがままに光央はサラと握手をし、すぐ彼女たちは近くの家に入っていった。
 「今から行くカフェのオーナーの奥さんとその子ども。元々彼女と友達だったんだけど、その旦那さんがカフェをオープンさせたの」
 乱気流に呑まれて乱高下した心地は今なお残っていたが、一筋の光に向かってすがってもいいのかもしれないと光央はかすかな安堵を覚えた。それは幼子を持つ母親と知り合いという雪を見て、悪の片棒を担ぐなどとはとても思えないと感じたからで、またそうあってほしいという光央の願いでもあった。
 行き着いた先のカフェは悪とは真逆を行く純白の空間だった。徹底的に白を使った内装は外から射し込む光だけで十分に眩しく、清廉潔白を象徴しているかのようだった。しかしそれはわずか一滴の黒でも染まりゆく脆さもまたはらんでいる気がした。
 店内にお客は二組いた。小さなお店のため、光央と雪で三組となるともう席はそこそこ埋まっている印象を与えていた。オーナーらしき男性は雪に気づくと、笑みをこぼしてカウンターの中から歓迎の気持ちを表した。
 飲み物だけを注文すると、料理は自動的に運ばれてきた。出てくる料理はどれも綺麗な見た目を意識したもので、食べるのがもったいないと思わせるものが多かった。光央はつい食べ方を気にして、雪の所作を盗み見ながら場に相応しい態度を心がけた。
 「そんな固くならなくて平気だって。楽にして。気持ちはわかるけどね」
 雪は意地悪な笑みを浮かべて料理を口に運ぶ。その口元に思わず釘付けになってしまい慌てて視線をそらす。
 「もうお祭りは見て回ったの?」
 中性的な色合いの話題はあまり脳を使わずに済むので助かる。
 「見たっていうほどちゃんとはまだ。友達らはこれから盛り上がってくるからって言ってて一緒には見て回ってないです」
 「うん。ま、最終日だけでも十分だからね。日本では火祭りなんて呼ばれてるの知ってる?」
 「はい。何かが燃え上がるとは聞いたけど詳しくは聞いてないし調べてもないからさっぱりですけど。今のとこ爆竹ばかり印象に残って……」
 光央は意識をお腹の辺りに集中させていた。そうしていないと、ふとまた雪の魅力に取り込まれて我を忘れてしまいそうだった。
 「爆竹も演出の一つとして大事だけど、知らないなら当日知るほうがいい?」
 「いえ、見ようと思えばネットで見れたわけだし。たまたま見なかったってだけでネタバレみたいの全然気にならないから、言っちゃって構わないです」
 店内の音楽が曲と曲の合間で鳴り止み、ほんの一瞬すべてが無に帰った。

「雪の瞳に燃える炎」(第七話)

第七話

 気温がかなり上昇していた。街は初夏の陽気で人々はかなり薄手の格好をしている。実際の収穫時期を光央は知らなかったが、バレンシアオレンジがなんとも似合う気候だと思った。
 雑多に賑わう駅の前でも、彼女を見逃すことはなかった。先に着いて待っていると、彼女が近づいてくる方角がなぜだかわかった。目を向けると黒のスラックスに真っ白なブラウスを着た彼女がゆっくりとこちらに向かってきていた。道行く誰もが目を奪われ、思わず二度見してしまっていた。
 流れる時間が遅い。すぐにでも抱き寄せたい衝動に駆られるほどなのに彼女はそのゆっくりとした歩調を決して変えることをしない。実際に彼女が遅いのではなく、彼女の生み出す時間の中に光央が入り込んでしまっていた。
 「ちょっと歩くけど落ち着けるカフェがあるからそこでランチしようか」
 挨拶など交わすまでもなく、光央と彼女は通じ合っているのだという幻想に囚われそうになる。まるで長いこと付き合っている二人のよう。今さら多くを語る必要など感じさせずに、彼女は歩き出す。
 光央に拒否権などない。彼女は絶対だ。体が勝手に彼女を追いかける。そして隣に立つだけで光央はエネルギーをどんどんと消費していくのがわかる。
 「スペインにはお祭り見に? もうすぐ帰るのかな?」
 辺りは爆竹がガンガン鳴り響いていた。彼女は驚く様子もなく歩き続ける。爆竹の他にもファンファーレやら合奏やらが通りを盛り上げていた。次第に祭りが本格化してきていることが感じ取れた。周囲はかなりの喧騒に包まれている。それでも彼女の声は一音も漏らすことなく光央の頭の中で奏でられていた。
 「一週間だけです」
 彼女の静けさに反して光央は大きく声を張っていた。
 「そっか」
 光央はなんとなく空気が一瞬寂しげな色を帯びた気がした。
 「スペインはもう長いんですよね? あまりに流暢なスペイン語だったからネイティブかと思ったくらい」
 「全然。接客用語だけ叩き込んでるの。あなたのが上手だと思う」
 「いや、俺はスペイン語は喋れないから……」
 彼女は目を細めいかにも怪訝な顔という顔をした。だがその表情すらも魅力的で、ありとあらゆる彼女を知りたいと思った。
 「友達みんなスペイン人なのに?」
 「彼らとはイタリアで知り合ったんです。だから俺はイタリア語で会話してます。昨日いた二人はイタリア語が喋れて、一人はスペイン語しかできないけどなんとなくそれでも言ってることはわかるから」
 光央の足元で爆竹が連続して爆発した。声こそかろうじて上げなかったが、みっともないくらい大きく仰け反ってしまった。
 「大丈夫?」
 そう言いながらも彼女は笑っていた。
 「この爆竹なんなんです? 全然慣れない。夜はうるさくて眠れないし……」
 彼女はなおも笑う。感情表現をこんなふうにする人なんだと少し近づけた気がした。
 「あ、そういえば名前まだだね? 聞いていい?」
 「あ、小畑光央です」
 心無しか彼女の目が開かれたのを光央は見逃さなかった。
 「へー、中央で光るの光央?」
 名前に対してそんな返しをされたのは初めてだった。
 「そうです。その光央」
 「光央か。いい名前だね」
 彼女は一人何かに納得するようにうんうんとご機嫌に頷いていた。
 「あ、ごめん。わたしはユキ」
 「ユキ?」
 「うん。雪が降るの雪」
 その名前からくる連想がそうさせたのか、彼女の周囲に光が集まり、雪の結晶のような煌めきが広がった。
 本当に綺麗だと思って見ていたのは、放水していたホースが爆竹にコントロールを失って辺りに水を撒き散らしたことによって生まれたちょっとした奇蹟だった。
 「雪さん」
 「うん」
 彼女にぴったりだと思った。熱くたぎる思いを胸に秘めているようでいて、どこか達観している。それは美しく結晶化された姿。熱さの対極ではなく、熱さの延長線上にこそ雪を冠する彼女はいる。
 「どうして俺の誘いを受けてくれたんです? 自分でも後々になってなんであんなナンパみたいなこといきなり言っちゃたんだろうって……」
 「うん? あまりにストレートな誘いだったからかな」
 光央はそれ以上を聞くことができなかった。
 常に主導権は雪にあった。大人の余裕が漂うこともそうだが、その目、その声を前にして態度を大きくとるなどということは光央にはできなかった。
 随分と街の奥まで来た。人の流れが途絶え、辺りはひっそりと静かで、同じ祭りまっただ中のバレンシアとは明らかに異なっていた。
 「スラム街なんて言ったら言い過ぎだけど、少し前まではそう呼ばれるに相応しいくらいの場所だったの」
 今は開発も進み至るところが舗装され綺麗になりつつあるも、当時の名残と思しき面も所々に目に付いた。

「雪の瞳に燃える炎」(第六話)

第六話

 光央は店内の奥にあるトイレに立った。扉を一枚隔てているはずなのにその向こう側には彼女がいるとはっきり感じた。声が聞こえるとか、香りがするとかではなく、存在感が確かにそこにあった。
 光央はどうしてここまで鼓動が高まっているのかわからなかった。初対面の店員さんに対して何を緊張することがあるのか。何を恐れることがあるのか。震える手で静かに扉を開けた。そして、やはりそばにいた彼女はすぐ光央に気がついた。
 「君、日本人かな?」
 その声に光央は心をぎゅっと掴まれた。暴力的にではなく、包み込むように。彼女の声の響きに心が覆われる。耳から入ってくるようでいて、直接脳に優しく響き渡るその声に光央は心地良いめまいを覚えた。
 外見の美しさは声までも美しくする。それくらい彼女の声は透きとおっていた。彼女から放たれる言葉によって震える空気が色めくようだった。その声に反応して鮮やかになる周囲の空気は、彼女の香りとも結びつく。場の空気は完全に彼女のものだった。
 彼女は光央が答えられずにいたために日本人じゃないと思ったのか、
 「あれ? 違うのかな?」
 と、独り言のように紡ぐ言葉すら一つの音楽の調べを成していた。
 「あ、あの、すみません、日本人です」
 ようやくなんとか力を振り絞って光央は声を出した。
 「あ、やっぱり。韓国人や中国人とはどこか少し違うよね。なんとなく日本人は見てわかる。でもこんなところに来る日本人は珍しい。ガイドブックとかにも一切載せてないから地元の人しか知らないの。いい友達を持ったね」
 一言一言が価値ある宝石みたいだと光央は思った。彼女が話せば話すほど辺りの空気がきらめく。
 「ここで働いてるんですか?」
 言ってから変な質問だと光央は気がついた。
 「遊んでるように見える?」
 彼女は笑った。営業用のスマイルとは違う純粋な笑顔。見ているだけで体が溶けそうになる感覚は光央にとって初めてだった。
 「うそうそ、冗談。こっちに住んでるから。ここはバイトでね。日本人と話すのもすごく久しぶり。街へ出れば見かけたりはするけど話したりはしないからさ」
 異国にいると感情の高ぶりが激しくなる。異国にいると思い切った行動ができたりする。
 「あの、明日とか……えっと……会えたりできませんか」
 考える前に口が動いていた。
 「お友達はいいの?」
 「明日はみんな仕事で、一人で時間を潰さないといけなくて……」
 「そっか。ん、いいよ。私も明日は暇だし」
 ポケットからメモ用紙とペンを取り出し彼女は何かを書きつける。
 「これ、私の番号。いつでも連絡くれていいから。こっちの携帯端末は持ってるでしょ?」
 そう言うと、彼女は小さく手を振り、先にホールに戻って行った。
 あっけなくナンパじみた行為が成功し、光央は今更にして全身の震えがピークに達した。その後マリオたちと話した内容、テーブルに並ぶ繊細な工夫が凝らされた料理など、漠然としか光央の記憶には残っていなかった。
 会計を済ませ席を立つと、彼女は奥のほうからさりげないウインクをした。光央はわずかに頭を下げ、わずかに口角を上げて笑顔を返す。
 「光央、あの彼女ウインクしなかった? もしかして声かけた?」
 フランチェスカが目敏く気づいた。あれだけフランチェスカが近くにいるだけで胸にときめきを覚えていたのに、その恋心とも思えた感情は漆黒の髪を持つ日本人女性によって完璧に上書きされた。
 「ちょっとね」
 光央は必死のシニカルな笑みでその場を後にした。
 スマートフォンならばなんでもできるが、光央が持つイタリアで購入した旧世代の携帯電話ではその国の文字しか打ち込むことができない。彼女にメッセージを送るにもどうしたものかと光央は考えた。ローマ字で日本語を打つか、イタリア語を打つか、マリオに尋ねてスペイン語で打つか。光央には電話をかけるという選択肢はなかった。同じスペインにいながらも国際電話扱いになる電話代を気にしていたのではなく、単に上手く話せる自信がなかった。せっかくの約束が台無しになりそうで怖かった。
 光央はスペイン語で打つことにした。それもマリオの助けを借りずに。正確にはマリオの部屋にあるネットの力を借りている時点でマリオの手は借りていることにはなるが、彼女とのことを聞かれるリスクはない。
 調べ物があるという理由で光央は一人パソコンを使わせてもらう。マリオはシエスタだと言って昼寝をしていたが、外は徐々に夕焼けで染まりゆく時間だった。このまま朝まで起きないんじゃないかと一緒に暮らしていたときも何度となく思った。マリオは休みだといつも夕方近くに寝て夜に起きる。
 マリオは例外としても、黙っていることがないスペイン人とずっと時間を共にしていたせいで独りの時間が妙に静かに感じる。時折、遠くのほうで爆竹が聞こえてはくるものの、久々に与えられた完全に独りの時間を懐かしんだ。
 マウスをクリックする音すら綺麗に鳴る。
 日本のニュースが目に付くとネットサーフィンをしそうになる。光央はすぐにネットを切り、携帯端末のメッセージ画面を開いた。
 明日昼から会おう、そう簡潔にメッセージを送る。彼女からは瞬時に、オッケー、とだけ返事がきた。続けて、正午にバレンシアの駅で、とすぐに送られてきた。
 遠足の前日の子どもはこんな気持ちだったかなと思う。胸がドキドキと、遠くの爆竹に負けないくらい音を立てていた。高揚した想いのまま鮮やかな夕日にたそがれていると、シエスタの雰囲気に呑まれたのか疲れがどっと出た。そしてゆっくりと光央はまどろんでいった。
 「光央」
 聞き慣れた声、好きだった声、フランチェスカが光央を眠りから呼び起こした。外はすっかり暗くなっている。
 一度別れたフランチェスカもいつの間にか再び合流していた。
 「ご飯ができたよ」
 リビングに行くとマリオが作ったと思われる料理がテーブルにところ狭しと並んでいた。
 「せっかく光央を招いておいて明日も一日独りぼっちにしちゃうからさ。そのお詫びとして腕を振るったよ」
 美味しいパエリアと奇跡的な美しさのカフェ、さらにはあの彼女との出会いをもたらしてくれたマリオたちには光央に詫びることなどこれっぽっちもない。むしろ光央がただひたすらに感謝したいくらいだった。けれどもシニカルな笑みを浮かべるマリオの優しさを素直にいただくことにした。それでも光央はどこか抜け駆けのようで彼女に会うことに若干の後ろめたさを感じてもいた。

「雪の瞳に燃える炎」(第五話)

第五話

 海からの風は冷たいものの、決して寒いとまで感じないのはバレンシアの恵みたる太陽のおかげだと光央は思う。
 ここでは爆竹の音はほとんど聞こえない。聞こえてくるのは波の音、空を舞う鳥の声、そして、光央たちの笑い声。砂浜に足を取られながら歩くのが苦にならない。歩くという行為が楽しいとさえ感じられた。
 途中大きな岩山が行く手を塞いだ。どうしてそこにその岩山だけが残されてしまったのかと大自然の神秘を思わせる。岩山は砂浜にしっかり乗り上げているが、海に面している部分もかなりを占める。海岸線に沿ってさらに歩こうとするならば浜から完全に陸地まで迂回しなければならなかった。
 「ここなんだ。秘密の隠れ家カフェ」
 マリオは今までで一番なほどにシニカルな笑み作る。
 迂回しようと岩山を回り込んでいるのかと思う途中、岩山が人を飲み込んだ。不自然にではなく、あくまでも自然に岩山が口を開けている部分があった。マリオを食べてしまった大きな口を光央は恐る恐る覗いた。そこには海賊船の牢屋を思わせる扉があり、マリオはその前で手招きしていた。
 「どうなってるのここ? この岩山そのものが人工的に造られたものなの?」
 光央は感じた疑問をぶつけずにはいられなかった。
 「岩山は正真正銘の天然だよ。天然で生み出された岩山の内部のスペースに造られた奇蹟のカフェ」
 店内は極力自然の岩をそのままに利用した造りのカフェで、狹いところや広いところが入り混じり、空が見えたり隠れたり、お店というにはあまりに秩序のない造りだった。だが、奥まで進むと一気に視界が開け、幻想的な空間が出現した。
 両サイドには分厚い岩山がそびえ、その岩山の両端を上から覆うかたちで、限りなく透明に近い、薄く色が散りばめられたステンドグラスのようなものが乗っかっていた。太陽を透過し、かつ、反射することで角度によって様々な色合いを見せる。正面には太陽によって輝いた大きな海原が望め、暗礁の上に席を設え、打ち寄せる波を感じることができる。文字通り海の上にあるカフェだ。
 光央にはどういう仕組みによるものなのかわからなかったが、足元の海は黄緑色に光輝き、ファンタジーの世界を演出していた。波の音という自然の音楽と、邪魔しない程度に流れるヒーリング系のメロディがその場をさらなる癒やしの、外の世界とは切り離した空間を作り上げていた。
 「どう?」
 マリオだけじゃなく、フランチェスカやファビオまで光央にシニカルな笑みを向けていた。
 光央は言葉を発することができなかった。どんな言葉も陳腐に聞こえてしまいそうで、ただ無言でいることこそがこのカフェに対する最高の賛辞に思えた。
 席に着くと光央は強烈な既視感を覚えた。ここで誰かに出会う。そんな光景が記憶の片隅から、屈折する光によって届けられた。
 海に大きく面したところにあるテーブルを整えている女性スタッフの姿を光央は捉えた。光の反射で逆行となる。けれどもその輪郭がぼんやり浮かび上がるだけで、光央にはそれが直感的にイメージした彼女だと思った。
 彼女がほんのわずか動いたことでその姿が光の中にはっきりと現れる。
 彼女は特別だった。
 目立っていたとかではなく、彼女を認識した途端に彼女しかいなくなってしまったという感覚に近い。彼女しか見えない。
 スペイン人の多くは黒髪だが、彼女のそれは黒よりも黒い、漆黒。背中まである長い漆黒の髪は光を飲み込む黒ではなく、光と共存し、より輝かしい艶を持つ。
 黄緑の光を放つ海の上に立つ姿は幻想的で、そのステージは彼女のために用意されたかのように絶妙な具合で調和していた。
 光央は視線を完全に奪われていた。
 その視線に気づいた彼女と目が合った瞬間、光央は自分を保つことが難しくなった。圧倒的な力を誇示するような強い目。その目で見られた者は決して抗えない、抗いたくない、征服されたいとまで感じる絶対服従の目。
 彼女がこちらに近づいてきているはずなのに光央は自分のほうが彼女に惹き寄せられていくような感覚に襲われた。
 「注文はお決まりです?」
 流暢なスペイン語が彼女の美しく整った小ぶりの口から届けられる。
 各々が注文をするなかでまったく自分という存在を見失っていた光央は、ただ何もわからないままなんとかマリオと同じものを注文した。
 「綺麗な人だね。日本人なんじゃない?」
 フランチェスカはうっとりとした目で彼女を追っていた。
 「光央?」
 隣にいるマリオの声が妙に遠く聞こえた。
 「あ、うん、日本人かも」
 「光央、あまりに綺麗だからって見惚れてたか?」
 ファビオに茶化されたそれらの会話が彼女の耳に届いていないかと心配になる。こちらに背を向けて厨房に注文を飛ばしている彼女の、ちょこんと左右についた小悪魔的な耳は彼女のテリトリー内の会話ならすべて捉えてしまいそうな気がした。