「漂う」(第十四話)

第十四話 あなたは電車に揺られていた。 大人女子を意識した格好をするため青山で買い物をすると決めていた。 電車から降り、すれ違う人に目を向けると一瞬脳裏をかすめるときめき。 振り返って見るも、それはまったくの見知らぬ人。 あなたは常に探していた…

「漂う」(第十三話)

第十三話 あなたは独りだった。 周囲には敵でも味方でもない人々が行き交い、今いる場の空気を創り上げていた。 あなたはこの中に自分の敵がいるのを知っていた。 およそすべてを知るあなたは敵の土俵で勝負するリスクもためらうことなく行動に出た。 異界に…

「漂う」(第十二話)

第十二話 あなたは依頼主が襲われたという閑静な住宅街を歩いていた。 弁護士事務所を立ち上げるにあたり、悩める女性の味方としてあなたは自身をセルフプロデュースしていた。そのためあなたの元に訪れる女性の多くはレイプ被害者だった。それは警察に相談…

「漂う」(第十一話)

第十一話 ホットヨガスタジオのタイムスケジュールを見ながらあたなは悩んでいた。 恋と呼ぶには早計かもしれないが彼女以外の他のインストラクターのときには決して感じない何か焦がれるという想いの記憶があなたの胸にちりちりとしたものを残していた。 彼…

「漂う」(第十話)

第十話 あなたは海の底とは異なる喧騒の只中で息をしていた。 最先端のデバイスを身につけることなく、目で認識できるほどの濃いタバコの煙に巻かれ焼酎をちびちびとすすっていた。 「海の底の話も興味深いんだけどさ、俺にしたらお前が身につけるウェアラブ…

「漂う」(第九話)

第九話 あなたは澄んだ水で満たされた水槽の中にいた。 あなたは水の抵抗など感じることなく動くことができた。 腕を広げる。足を動かす。力を抜く。あらゆる動作にあなたを取り囲む魚たちが反応を示し、コミカルなダンスを舞う。 あなたは空気の流れである…

「漂う」(第八話)

第八話 あなたはあなたが言うところの禁書目録を片手に、おびただしい数の書物に囲まれていた。知性をさらなる高みに体系化すべく、書物の海に体を預け精神を統一していた。 「お疲れ。賢者の間にいるの好きだね」 あなたの耳に優しく届くその美しい声は、ど…

「漂う」(第七話)

第七話 あなたの意識に語りかけるのは日本語とは大きく異なる言語だった。 あなたはドイツ語をお茶しながら学べるカフェの一室にいた。ドイツ語講師がずっとあなたに呼びかけていたらしい。 あなたの意識は光と闇を彷徨っていた。すぐ向かいに座る大学生くら…

「漂う」(第六話)

第六話 あなたが意識を現実に取り戻したとき、あなたは滝のような汗を流していた。着ているメッシュ素材のシャツは余裕で絞れるほど汗を含み、ぴったりと体に密着している。 正面の大きな鏡に映る自分と目が合う。 その下の時計を見ると、あなたが途方もなく…

「漂う」(第五話)

第五話 あなたは深い深い海の底を歩いていた。 腕に付けているウェアラブルデバイスは、今が昼前であることと、水深六千メートルに達したことを告げていた。 あなたの外見はおよそ地上を歩いている人々となんら変わりがない。白のポロシャツにビビッドカラー…

「漂う」(第四話)

第四話 それは夢なのかもしれない。 あなたはショート丈のダッフルコートにミニスカート。黒のタイツが足を細く長く映す。 あなたは少し斜め下のほうを向き、ほんのりと口角を上げて微笑む。 唇には派手すぎない程度に薄く艶の出るリップを塗り、同様に頬に…

「漂う」(第三話)

第三話 あなたが言うところの七色に光る虹ともオーロラとも呼べるような神秘的なベールに包まれた空を、あなたは飛んでいた。 あなたはなんでも把握していた。全能ではないが、およそ全知であった。 昼でも夜でもない世界にて、あなたは空から問いかける。 …

「漂う」(第二話)

第二話 あなたは深い闇にいた。 恐らく黒く負の感情を伴う比喩的な意味と同時に、そこはあらゆるものが感覚として捉えがたい漆黒の闇に包まれていた。 それは絶望。 考えることを一旦止めたというよりも諦めたことで陥った境地だとあなたは言った。 あなたは…

「漂う」(第一話)

第一話 あなたが言うところのどこまでも果てしなく青く碧い美しい空に向かって、あなたはただ当てもなく彷徨い歩いていた。 人の手が届かない孤島を取り囲む紺碧の海を思わせる空。 どこまで歩けば辿り着くのかなど見当もつかない。それでも足は自ずと引き寄…

閑話休題

ブルートゥースのキーボードが壊れてしまった……。新しいものが届くまで壊れたスマホの画面を四苦八苦しながら打ち込まなければならない。画面にヒビが入っているからなのか打ち込むためにフリックするとカーソルがその度にバンバンとあちこちに飛ぶ。ここま…

春の雪と夏の真珠(第四十三話)

第四十三話 入学式に合わせて桜が咲くようにするため、学校に植えられた桜は様々な品種が混ぜ合わされていると聞いたことがある。 それでも自然の摂理にいつでも完璧に抗えるわけではないだろう。 そう考えるとこうして息子の中学の入学式にて満開の桜に迎え…

春の雪と夏の真珠(第四十二話)

第四十二話 寒さは冬を感じさせているものの一度の雪も降らずに季節は流れていく。急に四月並みの気温になったりすると、もう春の訪れかと人も草木も勘違いしてしまう。 三月に入ると、また冬に戻ったりしつつも徐々に気温が高くなっていくのは毎朝肌に感じ…

春の雪と夏の真珠(第四十一話)

第四十一話 夏珠が福岡に帰ってしまってからも生活には何一つ変化はなかった。 担任が急にいなくなったことに対しても凰佑はまだあまりピンときていない部分も多く、ひょっこりまたすぐ現れるくらいに思っているのかもしれない。 生活は今まで通りだ。 ただ…

春の雪と夏の真珠(第四十話)

第四十話 年末は慌ただしい。毎年どんなに構えていてもすぐバタバタしてしまう。今年も案の定のこと、俺も妻も仕事に追われあっという間に仕事納めを迎え、何も片付いてない家のことに取りかかればまたたく間に年が明けてしまった。双方の両親との付き合いな…

春の雪と夏の真珠(第三十九話)

第三十九話 すっきりとした朝だった。 意識ははっきりとしている。長い夢でも見ていたのかもしれない。夢を見ることで人間は記憶の整理をするなどというが、ごちゃごちゃになっていたメモリーが解放され軽くなっている気がする。 妙に頭は冴え渡り、処理速度…

春の雪と夏の真珠(第三十八話)

第三十八話 皮肉だと思う。 夏珠はきっと妻と子どもを捨てて自分の元に来るような俺を好きにはならない。妻と子どもを愛する俺が好きなんだと思う。 なら、俺は妻と子どもを愛することで夏珠を幸せにするしかない。 「でもね。今いる子たちの最後は見届けた…

春の雪と夏の真珠(第三十七話)

第三十七話 夏珠の家の近くにある個人経営らしい洋食屋に夕ご飯を食べに行った。 夏珠との時間はいつだってあっという間に流れていく。午前中から会っていたのにもう外は暗い。こんな住宅立地でもイルミネーションは所々で輝いていた。 上手く言葉にはできな…

春の雪と夏の真珠(第三十六話)

第三十六話 日差しで明るい夏珠の部屋に男女の情を掻き立てるムードなんてものはなかった。それでも俺は夏珠を激しく抱いた。そうした行為がいかにも当たり前のことのように。お互いに何一つ躊躇することもなく、結ばれるべくして結ばれた二人への賜物として…

春の雪と夏の真珠(第三十五話)

第三十五話 A4版のアルバム。 表紙には『春の雪、夏の真珠』とある。夏珠らしい爽やかな黄色とピンクを基調としたアルバムで、春と夏のイメージがよくはまっている。 横並びにほとんどくっついているというくらい寄り添いながら二人でゆっくりとページをめ…

春の雪と夏の真珠(第三十四話)

第三十四話 朝の目覚めは妙によかった。 酔った勢いで夏珠に連絡しかけたが思いとどまる理性が残っていたのは幸いだった。素直な本音は言えたかもしれないが酔った状態じゃなんとも誠意に欠ける。 俺の中でするべきことが固まっているのがわかる。 夏珠は職…

春の雪と夏の真珠(第三十三話)

第三十三話 「今思うとなんでそこでしゅんと縮こまったまま何もしなかったのかって。しばらく、本当に長いこと何もできなかった。精神的にというのは言い訳だよね。すぐに行動すれば変わってたものもあったかもしれないのに」 俺と同僚は、俺の希望で賑わう…

春の雪と夏の真珠(第三十二話)

第三十二話 目が覚めたとき自分がどこにいるのか、現実なのか夢なのかさえまったくわからなかった。時間をかけてやっと今自分が自分の部屋で寝ていることに気がついた。見慣れた景色のはずが妙に異質に映る。 外は明るく、目に入る時計の針はまもなく三時に…

春の雪と夏の真珠(第三十一話)

第三十一話 季節は流れ、本格的な冬の訪れも近い十一月となり街はイルミネーションで鮮やかに彩られ始めていた。 そんななか俺は未だに夏珠に対して明確な返事もしないままでいた。俺自身がダメな男という点はまさしくその通りだが、夏珠の方でも俺にちゃん…

春の雪と夏の真珠(第三十話)

第三十話 夏珠がいなくなるとあっという間に梅雨が明けた。痛烈な日差しを送り込む夏が訪れた。 俺の生活は何も変わらなかった。夏珠に会えないというのは残念なようでいて少しほっとするようでもあり、夏珠のことを考えるたびに複雑な想いに苛まれた。 毎年…

春の雪と夏の真珠(第二十九話)

第二十九話 それから一週間が過ぎた。 運命のいたずらか、避けられているのか俺にはわからない。ただ夏珠と顔を合わせることがなく月日が過ぎていった。 もともと送り迎えの頻度としては妻のほうが多い。保育園で夏珠を見る機会は少なかったわけだから会えな…